二章 片山宗


「未央を勝手に勧誘されるのは、ちょっと困っちゃうのよォ」
「あれ、そうなんだ?」
「私、油絵の同好会に入っててね。未央には私の専属モデルをしてもらってるの。だから今、この子を連れていかれちゃうと、展覧会に間に合わなくって」
 へえ、と片山くんが驚いた顔をする。私が久藤くんの絵のモデルをしている。片山くんは単に、その事実が意外だったのだろう。
 私は別のことに驚いていた。久藤くんがそれを、明言したことだ。彼は何度となくポーズモデルに私を使ってきたけれど、そのことを周りには一切言っている様子がなかった。顔立ちや髪型はいつも、絵に合わせて調整され、久藤くんが公言しなければ誰も私がモデルになっているとは分からないように描かれていた。
 だからきっと、私などをモデルにしていると分かったら不都合なのだろうと思い、私も誰にも漏らさなかった。もっとも、言う相手もいなかったわけだけれど――それでも、久藤くんの絵に私が描かれていることは、暗黙の了解で秘密にしておく事柄なのだと思っていたのだ。
「そうだったんだ。それは知らずに、悪かった」
「分かってくれればいいのよ、私こそお喋りに水を差してごめんなさいねェ?」
「いや、会えてよかったよ、八積。油絵同好会だっけ? 今度ぜひ、お前の描いたのも見せてくれよな」
 勝手にそう感じていたのは、私だけだったのだろうか。薄いベールのような秘密をあっさりと公開した久藤くんに、もう先刻感じたような冷然とした雰囲気は見当たらない。嬉しそうに二言、三言、片山くんと会話をして、人混みのむこうから呼ばれた声に返事をした。
「はーい、ごめん! 今行くわァ」
「何か用事?」
「勧誘よ。私もここに集まってるサークルと同じ、新入生を捕まえに来たアリクイってワケ」
 はい、と片山くんにポストカードを一枚手渡して、久藤くんは赤い舌で唇を舐めた。長いTシャツの、どう見ても実用ではなくデザインで作られたポケットに、何種類ものポストカードが詰め込まれている。
「はいはーい、油絵同好会よォ。ピッカピカの一年生もボロボロの留年生も、男の子も女の子も見にいらっしゃい!」
 奥で勧誘をしている仲間の元へ向かう道すがら、頭の上でパンと手を叩いて、久藤くんは声を張り上げた。人の壁が自然に開き、皆が彼に注目する。慣れた足取りでその中を悠然と歩いていく後ろ姿を眺めて、片山くんが感心したように呟いた。
「相変わらずだな、あいつ。ていうか、さらに磨きがかかった感じ」
「そうだね」
「群山さん、仲良かったんだね。意外だった」
 肯定するでも、否定するでもなく、私は曖昧に笑って返した。片山くんはそれをどう捉えたのか、少し考える顔を見せてから、躊躇いがちに訊いた。
「付き合ってたり、する?」
「えっ? まさか……!」
「ごめんごめん、だよね。群山さん真面目だし、八積ってタイプではないか」
 私がよほど慌てた様子で首を振ったらしい。片山くんは苦笑して、ちょっと疑っちゃっただけだから、と弁解した。私がどうこうというより、久藤くんが私を選ぶなんて冗談でもありえないことだ。彼の周りにはいつも、華やかな男女が溢れているのだから。
「モデルをしてるのは、ちょっとした利害の一致というか」
「ああ、そうなの?」
「ただの、バイトみたいなものなの。久藤くんは……誰でも良かったんだと思う」
 多分彼は、絵を描かれたくらいで特別な関係になったと舞い上がったりしなくて、見返りに彼の時間や気持ちを求めたりもしない。そういう相手を、モデルに使いたかったのだろう。その点、私なら問題がない。私が久藤くんに頼まれることは、それ自体がすべて、私の秘密に対する見返りなのだから。
 片山くんはそれ以上訊かずに、ふうん、と頷いた。そうして人垣から飛び出した久藤くんの頭をちらと見て、笑った。
「八積はああ言ってたけどさ、別に毎日アトリエ籠りってわけでもないんだろ?」
「それは、まあ」
「じゃあ、今度時間の合うときに食事でも行こうよ。久しぶりに話したいし、大学のこと色々教えて」
 すっかり冷めていた熱が頬にぶり返しそうになって、私は分かったと頷く恰好で下を向いた。高校時代には毎日顔を合わせていてもこんな展開はなかったのに、久しぶりに会ったというだけでそれが食事に行く理由になったりするのだから、時間は不思議だ。私も片山くんと、積もる話などないのにもっと話していたいような気持ちになった。
 私たちは片山くんの提案で連絡先を交換して、それじゃあまた、と目的地に向かって別れた。人垣のむこうでは久藤くんの周りに、新入生がぞくぞくと集まり始めていた。


 スウ、とカンヴァスに下書きの線を引いていく音が、秒針の歩みと交ざり合って響く。シンプルな黒の壁掛け時計が示す時刻は、午後五時半。窓から差す光はまだ昼のように明るい。
 春の時間はゆっくり進む。あと三ヶ月もすれば日の落ちるのが早くなって、今頃は夜の入り口になるだなんて、考えもつかない。
 ふと、視線を部屋の中心へ向けたら、淡い影に沈んだ眸と行き合った。強さがあるけれど、燃えるような強さではなく、どこか冷たい静けさを湛えた眸。私は、その目に見られるのは慣れている。描く絵の構図によっては、真正面から何時間も向かい合っていたこともあるからだ。
 でも今、久藤くんは〈モデル〉ではなく、〈私〉を見ていた。
「……何?」
 問いかけると、唇の端がクスッと上がる。普段、モデルの間は自分から口を利かない私だが、今日の視線は何だか突き刺さるようで、黙っていられなかった。
「分かるの? ちゃんと手は動かしてたのに」
「でも、下のほうで描いてるもの。……顔の位置じゃない」
「ああ、そうよねェ。……薔薇を描いてたの」
 言われて、私は肘をついたテーブルの上にある花瓶を見た。そこには今日、この部屋に来たときから、三本の薔薇が活けてある。これを参考に、配置だけ変えているのだろうか。でも、久藤くんが見ていたのが薔薇だとしたら、私と視線が合うことはなかっただろう。
「二十三分ぶりよ」
「え?」
「あなたが私のほうを見たの。ずっと、何を考えてたの? 心ここに在らずみたいな顔をして」
 指摘されて、はっともう一度時計を見た。そういえば、最後に時間を確認したときは、五時少しだった気がする。
 あれからもう、三十分近く過ぎていたのか。ずいぶんぼうっとしていて、十分が一瞬のような感覚さえした。まばたきを数回しただけのような気がする。読書に没頭したときの、嘘のような時間の経ち方とよく似ていた。
「当ててみせましょうか」
 細く薄く、線を引き足しながら久藤くんは言う。いくらこの人にだって、人の心など、そう簡単に見えるものか。押し黙っている私に、彼はイーゼルの奥で音もなく脚を組み替えた。
「宗のことでしょ」
「……違う」
「嘘ね。私だったら考えずにはいられないわァ? 偶然の悪戯は、必然よりずっと心を掻き乱す。だって覚悟していない出来事だもの。違う?」
 反復するように、彼はカンヴァス越しに眸を細めて囁く。図星を指されて、脆い盾は呆気なく破られる。


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