一章 ある犬


 私は彼の〈お願い〉が一回限りだと思っていたので、あまりに呆気なく終わって少し拍子抜けした。でも、それからというもの、久藤くんは度々似たようなお願いをしてくるようになった。それもそうだ。私は久藤くんに、本のことを「ずっと黙っていて」と言っているのに、久藤くんからのお願いが一度だけというのは割に合わない。それに気づいたとき、ああそうか、と思った。
 私は久藤八積に、逆らえない立場になったのだ、と。
 奴隷とまでは言わない。久藤くんは力でものを訴えるタイプではないし、お願いという名の命令だって、金銭や体を要求してくるわけでもない。手酷い扱いを受けているわけではなく、素直に従っていれば至って平穏に接してくれる。
 だから、犬だ。言うことをきいている限りは、飼い主にぶたれることのない犬。私は秘密を守るという餌の前で、久藤くんに逆らう術を持たない。従順に、何だって言うとおりにする。呼ばれたら飛んでいき、どこにいても返事をする。望まれたら足元に侍って、芸でも何でもしてみせなければならない。逆らえば、お仕置きとして秘密をばらされてしまう立場なのだから。
「お疲れ。一旦休憩にしましょ」
「あ……」
「十五分だけ部屋で寝るわ。あなたも自由にしてて」
 わん、と答える代わりに、人間ぶって「はい」と返事をした。久藤くんはそんな私を見て、何か言いたげな顔をしたものの、結局なにも言わずに隣の部屋へ出ていった。私と二人きりのとき、久藤くんが笑う顔を、滅多に見ない。言葉数は少なく、時々わざとなのか、私が返事に困るような皮肉を言う。大学にいるときとは、別人のようだ。
 きっとそれは彼にとって、私が笑顔や愛想を向ける必要のない、犬だからなのだろう。
 刺繍の施された着物をそっと脱いで、私はかばんの中に入っていた水を飲み、テーブルに突っ伏した。


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