一章 ある犬


「来て」
 ホームに降りた瞬間、ドアが閉まって、電車は発車する。呆然とした様子の片山くんが遠ざかっていくのを見ながら、私はどこか他人事のように、男性が痴漢を認めるのを聞いていた。
「なんで、助けてって言わなかったの? 宗に」
 宗(しゅう)は、片山くんの下の名前だ。警察が来て男性の身元の取り調べを済ませるまでの間、事務所の奥でパイプ椅子と飲み物を出されて待たされていた私たちの、沈黙を破ったのは久藤くんだった。ことん、とウーロン茶を置く音が響く。甘いチョコレートの挟まったビスケットをひとつ、駅員さんがくれていた。
「言ったら、逃げられちゃうと思って」
「それは、そうかもしれないけど」
「……迷惑かけるわけにもいかないでしょ。ほとんど喋ったこともないのに」
 食べ終わった包み紙を手の中で折ったり広げたりしながら、久藤くんと目を合わせずに、私は言った。あのとき、痴漢を痴漢と言うことと同じかそれ以上に、片山くんに助けを求めるのが怖かった。痴漢です、助けてと言って、もしも私の勘違いだったら? 巻き込まれて、注目を浴びた片山くんは、どんな目で私を見るだろう。
「もっと可愛かったら、現行犯じゃなくても信じてもらえるだろうけど……私が言ったところで、自意識過剰な勘違いって言われたら、それでおしまいだもの」
 冤罪、被害妄想、言いがかり。そんな人騒がせな女だと、片山くんに思われたくなかった。迷惑をかけない、いい子であることくらいしか、私には取り柄がない。それを失ってしまったら、今後どんな顔をして片山くんと接することができるだろう。
 久藤くんが呆れたようにため息をついた。
「好きな男の子を、窮地のときにも頼れないようじゃその恋は無理よ」
「な……っ、そういうわけじゃ」
「見てれば分かるの。あなた、教室でいつも宗を目で追ってる」
 図星を指されて、返す言葉が何もない。久藤くんの口調には確信があった。これ以上の問答は無意味だ。私は包み紙をテーブルに置いて、代わりにグラスを手に取った。
「本人には言わないで。絶対に」
「あら、どうして?」
「お願い。……知られたくない。もう明日から片山くんのほうは見ない」
「頑なねェ」
「私なんかに好かれたって、きっと迷惑だもの」
 最悪だ。第三者の――それも親しくもない男の子の目から見ても、一目瞭然だったなんて。女の子たちはもっと鋭い。きっと私が片山くんに分不相応な恋をしているのを、敏い子たちはとっくに知っているだろう。恥ずかしい。叶うなんて微塵も思っていないから、せめて誰からも指摘されたくない。
 久藤くんがふうんと、顔を顰めた。
「卑屈だわァ」
 彼が誰かをそんなふうに言うのを、私はこれまで、一度も聞いたことがなかった。驚いて顔を上げると、久藤くんは構わず続けた。
「さっきから聞いてれば、私なんかとか、迷惑だとか、可愛くないとか、そんなことばっかり。そういうこと言ってると、恋なんて一生できないわよ」
「別にいいもの。私は……片想いをしちゃうことはあるけど、恋愛をしたいなんて大それたことは望んでないから」
「嘘ばっかり。本当は、頭が破裂しそうなくらい興味があるくせに」
「何それ? 久藤くんに、何が分かるって――」
 恋愛なんて、私には似合わない。似合わないものに抱く興味ほど、滑稽で虚しいものはない。ぱん、とテーブルにのせられた本を見て、私は息を呑んだ。それは数日前、私が置き去りにして、久藤くんが自分のものだと言い出した、あの本だった。
「あなたがわざわざ地味な色のカバーをかけて、夕方の図書室で何を読んでるか、私は知ってるの」
「なんで……」
「あなたって、本を読んでいるときは周りの音を忘れちゃうのね。ドアを開けても全然気づかなくて、声をかけようと近づいたら挿絵を見ちゃったわ」
 全身の血が沸騰しそうに、熱くなるのが分かった。この本にどんな挿絵が使われているか、私は最初に一通り眺めて、よく分かっていた。どれを見たのだろう。いや、数日手元に置かれた今となっては、全部見たのか。
 沸騰しきった血が、急速に冷えていく。全身を氷が滑り降りるような冷たさに、差し出された本を受けとりながら、かぶりを振った。
「お願い。このこと、誰にも言わないで。お願い」
「あなたが思うよりも、みんなコソコソ同じようなの読んでるわよ」
「みんなはいいけど私はダメなの!」
 声が思ったより大きく響いて、事務所の天井に反響した。はっとして立ち上がった椅子に腰を戻した私を見て、久藤くんは何か言いたげに髪をかき上げ、ため息をついた。
 みんなはいい。可愛くて明るくて、今時の女の子たちだから、ちょっと大人の恋に興味を持っていることくらい、魅惑的な秘密になる。でも私はだめだ。子供が図体だけ大きくなったみたいな、真っ黒のおさげにきっちりした制服。化粧っ気のない目元にかかった黒縁の眼鏡。何一つ、お洒落だったり茶目っ気があったりするところがない。
 みんなが読むのは、ささやかで可愛らしい恋への憧憬に見える。でも私が読むと、汚らわしい欲情に見える。不似合いな本なのだ。こんなものを持っていることがばれたら、学校にいられない。
 震える私の膝の上のかばんをジーッと開けて、久藤くんは本を押し込み、頷いた。
「いいわ。人の秘密をバラす趣味もないし……黙っててあげる」
「ありが……」
「ただし」
 パイプ椅子が軋みを上げた。久藤くんが、私の椅子の背もたれに手をかけたのだった。
「私のお願いも、聞いてもらえるかしら」
 え、と問いかけにもならない声を漏らす私の上に、少年の面差しを残した、それでいてどこか大人の女性のような微笑みが迫ってくる。蛍光灯が彼の頭の真後ろに消えて、影が私を覆い尽くした。どくんと心臓が高鳴った。
 そのとき、事務所のドアがノックされた。

 かたん、と筆を取り替える音が、静寂を破る。回想の淵から意識を引き戻され、私は首を動かさないよう、目だけで久藤くんを眺めた。
 あのとき駅員さんが私たちを呼びに来て、彼は素早く身を離した。もし来なかったら、どうするつもりだったのだろう。あのときの彼が望んでいたことは、今となっても謎のままだ。
 家に連絡を入れたり簡単な示談をまとめたり、一通りのことを終えて解放されたときには、久藤くんはもう「お願いって何?」と聞いても「忘れちゃった」の一点張りで答えてくれる気配がなかった。仕方ないのでその日はもやもやとした気分のまま家に帰った。
 その翌日だ。久藤くんから、買い物に付き合ってと言われて放課後の駅前へ一緒に出かけたのは。女性もののアクセサリーショップだった。自身で使いたいわけではなくて、デザインが好きだから見たいだけなのだけれど、一人で来るとプレゼントを探していると思われてしつこく声をかけられるという。私がいれば自分はその付き合いだと思われて、静かに見られるだろうという理由で連れてこられたらしい。


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