七章 爆ぜる星々の叫び


「行かなくちゃ」
 弾かれたように駆けだした私を、片山くんが呼び止めた。けれど私にぶつかられて開いた人だかりは、すぐにまた埋め戻されて、片山くんの声もざわめきの向こうに消えていく。観衆は私たちが来たときの倍にも膨れ上がっていた。その中を無我夢中でかき分けて、私は傍にいた見知らぬ人の腕を掴んで訊ねた。
「久藤くんは?」
「え、八積?」
 驚いた様子で私を見たその人が、友人と顔を見合わせる。周囲の数人がなんだなんだとどよめき、うちの一人が口を開いた。
「あいつなら、たぶん部室にいるんじゃね?」
「部室?」
「一階の隅の旧資料室だっけ? 今年の春から、油絵同好会が使ってるんだよ。さっき近くで見たから、外に行ったわけじゃなければ……」
「ありがとう!」
「あっ、おい? 確実ってわけじゃねえからな!」
 背後で慌てたように叫ぶ声を振り切って、私は走った。きっとそこにいるという、確信に近い予感があった。
 今キャンパスの中を不用意にうろうろしたら、あっというまに大勢の知り合いに囲まれてしまうだろう。久藤八積はそんなこと、慣れている。でも、私の知っている久藤くんは、必ずしも渦の中心になることを好む人ではないから。
 ひと気のない廊下を駆け抜けて、私は古い表札の上に真新しい紙で〈油絵同好会〉と貼られた部屋を見つけた。運動とは無縁の生活を送ってきた体が、突然の疾走に悲鳴を上げている。肺はとっくに空気をやりくりしきれなくて軋るように痛み、脚は重く、肩で息をしていた。
 それでも握り潰された心臓から止め処なく溢れる血が、原始の爆発みたいに熱く、私を突き動かしたのだ。
「久藤くん」
 そこにいるのか、いないのか。ノックをして確かめる余裕もなく、開け放ったドアの先に、久しく見ていなかった後ろ姿が座っていた。イーゼルを前に、窓のほうを向いて小さな椅子を跨いだ彼は、私の中に戻ってきた久藤くんそのものだ。思わず錯覚ではないかと目をこすった。
「一人なの?」
 その背中が、ぽつりと口を開く。私は肯定の代わりに、黙ってドアを閉めた。そうしてもう一度振り返ったときには、久藤くんも私のほうを向いていた。
 目が合うと、眉間にかすかな苦渋の皺が生まれる。かつてこの人がこういう顔をするとき、私は恐ろしくてならなかった。彼の機嫌を損ねたら、私の汚く恥ずかしい秘密を、彼の何百人という友人が知ることになるのではないかと。怯えるばかりで、考えもしなかった。彼がそのときどうして、そんな顔をしたのかと。
「宗が来てくれたら、良かったのに」
 かたん、とイーゼルの縁に、鉛筆が下ろされる。
「あの絵を見て、駆け込んできたのが宗だったなら、何もかも終わりにしようと思ってたのよ」
「何もかもって?」
「私とあなたのこと。悪いのはすべて私で、あれはただの、あなたに執着した私が生み出した妄想の産物。あなたはただ少し、座ってポーズを取ってくれただけで、あの絵に描かれたようなことは何ひとつないって、宗とあなたに宣言して詫びるつもりだった。そうして私たちの間にあったことは全部、最初から幻だったとでも思って、お墓に持っていこうって思ってたの」
 岩陰に凍った氷柱のように、久藤くんの眸は影の中で光を放つ。その目が捉えようのない感情を乱反射させるときを、何度も見てきたのに、いつも恐れるばかりで真実を見通そうとしてこなかった。
 判断を間違えるのが怖くて。
 間違いを嘲られるのを避けたくて。
 恥をかくのは惨めなことだと、自分のプライドばかりに目がいって。
「なのになんで、あなたって一人で来ちゃうのかしらね」
「久藤くん……」
「またあんな目に遭いたいの? お願いだから、宗に守ってもらって頂戴よ。私から」
 心の中で予防線を張っていた。自分は久藤くんにとって、ただの犬みたいなものだ、と。そうすることで、可能性に気づかないように、先回りに先回りを重ねていたのだ。
 この人が私を大切にしているのかもしれない、という、気づいてしまったら見ないふりなどできない可能性に。
「言えない性分なの。知ってるでしょ?」
「……そうね。知ってるけど」
「だから、何も言わなくても分かってくれる久藤くんに、甘えてたの」
 視線を外していた眸が、音もなく大きくなる。驚いた顔で、久藤くんは私を見た。言葉が上手く繋がらなくて、全身に散らばってしまったみたいだ。千も万もの言葉の中から、たったひとつしかない鍵穴に合うものを探している。
 何度も何度も、差し出されていた鍵を、そのたび私が気づかないふりで埋めてしまったから。鍵を回してみたらその先の部屋はがらんどうで、すべて冗談で、馬鹿な勘違いだったと思い知ったら耐え切れない。たったそれだけの、くだらない怖れへの自衛で。
「教えて、久藤くん。私はあなたの何だったの?」
「未央……」
「ずっと言うことをきくだけの、飽きたら捨てておしまいの犬なんだと思ってた。首輪に繋がれて、自由が奪われたつもりでいた。でも本当は、私は……久藤くんの前にいるときが、一番自由だった。言葉もいらない、秘密もいらない。口下手で卑屈で欲望だらけの私のまま、傍にいられるように、あなたがしてくれてたの」
 久藤くんの唇が、何かを言おうと開いた。そして何も言わずに閉じて、擦り合わせるように引き結ばれた。
 彼は言葉を探していた。それは精巧に作られた錠前が、鍵の凹凸を一つ一つ確かめて、順繰りに応えてゆくみたいに。やがて彼は錠前が外れる音を聞いたのか、もう一度口を開いて、ぽつりと言った。
「……憧れ」
「え……?」
「あなたは私の、憧れだったのよ。未央」
 影の中からこちらを見つめていた眸が、ふ、と和らぐ。雪解けの一滴を彷彿させるような、何とも静かな笑みだった。
「中学の頃にあなたを知って、いつも本を読んでる大人しい子って印象だったわ。接点もなかったし、正直、名前だけ知っておけば十分だと思ってた」
「うん」
「でもあるときね、誰もいない学校を歩いてみたくなって、朝早く登校したことがあったの。ホームルームまで一時間くらいあったから、もちろん人なんて全然いなかった。廊下に出て外を眺めたり、よその教室に入ったりしてみたわ。それで誰かの机に座って、校庭を見ていたら、遠くからあなたが歩いてきたのよ」
 懐かしげに話す久藤くんの声に導かれて、私の脳裏にも、中学校の風景が甦ってきた。私は当時、家が遠かったので毎朝車で送ってもらっていて、父親の仕事に合わせている都合でかなり早い時間に登校していた。
 運動部よりも早かったので、いつも教室に一人でいるのが当たり前だったものだ。まさかあのとき、一日でも私よりも早く来ている生徒がいただなんて、考えたことがなかった。


- 24 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -