七章 爆ぜる星々の叫び


「ふうん、あいつそんな腕前だったんだ。そういえば結局、絵も見せてもらったことないし、夏休み終わってから会ってないな」
「う、うん」
「行ってみない? 時間あるし。八積に会ったら、見たって言いたいしさ」
 片山くんはそう言って、私を促すみたいに「ね」と笑った。動揺していた私は、受諾とも拒絶とも取れる曖昧な返事をしてしまい、すっかりその気になっていた片山くんはそれを受諾と取った。
「八積のやつ、入賞したなら教えてくれればいいのにな。俺はともかく、群山さんはこの一年も親しくしてたんだしさ」
 片山くんは私と久藤くんの間にあったことを、当然知らない。二ヶ月前、私は結局、片山くんとの電話の直後に解放されて、半ば部屋から追い出されるような形で自由になった。
 その数日後、私は片山くんと付き合い始めた。久藤くんはしばらく学校に顔を出さず、試験の頃になってようやく戻ってきたと風の噂で聞いたが、詳しいことは分からない。私は彼を避けて出来る限り人の集まるところへ寄りつかないようにしていたので、ほとんどその姿を見かけることもなく夏休みへ入ったし、彼のほうからも約束通り、一切の連絡をしてこなかった。
 私たちは別れたのだ。ふと、そう思ってから、まるで恋人だったみたいな表現だなとかぶりを振った。離れた、終わった、どう言っても親密な関係だったように聞こえてしまう。実際には飼い主と犬だったのだから、捨てられた、が正しい。でもそれを望んだのは私だから、表現としては、あまりしっくりこない。
「うわ、すごい人だかり」
 ともかくそんなわけで、私はあれ以来、久藤くんを避け続けてきた。けれど一部始終を知らない片山くんにとっては、久藤くんの存在は今も、私たちの共通の友人なのだ。
 購買に近づくにつれて見えてきた人垣を、彼は根気よくかき分けながら、前のほうへと進んでいった。手を繋がれているせいで、必然的に私も絵のほうへと向かっていく。絵を見ることには何の悪い感情も持っていなかったが、私はそこに久藤くんがいたらどうしようという思いで、今にも逃げ出したかった。
 どんな顔をして会ったらいいのか分からない。私の目の底には、久藤くんが最後の最後にひるがえしたナイフが今も突き刺さっていて、あのときの彼の真意は分からないまま。真っ赤になって腫れていた、綺麗な目だけを時々夢に見る。
 自分がよほど彼を傷つけたのだ、ということだけは痛いほど分かった。でもそれがどんな行いだったのか、問いかける時間は与えてもらえなかった。雨曝しの階段を外へ向かって下りるとき、五年越しの自由を手に入れたというのに、対価として一生治らない傷を負った気分だったのを鮮明に覚えている。
 私は久藤くんに二度と会ってはいけないのだ、と確信した。今更のこのこと絵を見に来た姿など、見せてはいけない。
「ああ、ここから見えそうだよ」
 どうかいませんように、と祈るような思いでうつむいた私の手を、人垣の隙間に出た片山くんが引っ張った。感嘆や戸惑い、好奇の声が飛び交う中をよろけながら、私も隣に立って、そっと顔を上げる。
 そこにあったのは、生身の人間が一人入れそうな大きさの、横向きのキャンバスに描かれた一枚の絵。金色の額縁に収められたその〈部屋〉の光景に、私は呼吸も忘れて目を瞠った。

 中央には、紅い着物を肩にかけた黒髪の女。
 こちらに体の左側を向けて、古めかしい木の丸テーブルにしなだれかかるように肘をつき、少し離れた場所に置かれた細脚の椅子に腰をかけている。
 背景には大きな窓。
 左右両面とも開かれており、青々とした空の明るさが、光のない部屋の中を逆光で照らし出していた。
 画面左には、顎を手首にのせた女を見下ろすように広げられた書見台。
 しかし書物はのっておらず、女には目隠しがされていて、役目のない木枠が寂しげな骨のようにただ宙に浮かんでいる状態だ。
 画面右にも書見台があり、こちらは壊れたものがいくつも積み重なっている。
 無数の本が巻き込まれて、ページを閉じたり開いたりしながら木屑に挟まれていた。
 画面の上部には、女を目がけてまっすぐに下を向いた短剣。
 さながらオセローの一幕のごとく、白銀に輝く切っ先は、今にも衿から覗く首を掻き切ってしまいそうである。しかし剣は柄や根元を、左右の天井から伸びた帯のようなもので雁字搦めにされていて、落ちてくる気配はないに等しい。
 それらが描かれた画面の、壁や床や、その他ほとんどと言っていい空いた場所を埋め尽くしているのは、深い緑色で描かれた薔薇の葉と蔓だった。
 所々に紫の斑を持つ葉を茂らせながら、蔓はあらゆる方角から現れ、中心に向かっている。そして椅子に腰かけた女の、手首や足首に巻きついていた。落ちる気配のない短剣の下、蔓に絡みつかれた女は、それほど際どく描かれているわけではないが、着物の下には何も纏っていないように見える。棘を並べた薔薇の蔓は女の白い脹脛を締め上げて、着物の陰から覗く膝まで向かっていた。一輪の花もない、ただ生い茂るばかりの葉と共に。まるでその女を、真紅の、一輪の花としているかのように。

 額縁の下部に、真鍮のプレートが打ち据えられている。流麗な筆致で刻まれたタイトルは、『私のあなた』。

『富と名声ともうひとつ、人を狂わせるものがあるでしょ』
 そのタイトルを目にした瞬間、頭の中で、いつかの久藤くんの声が響き渡った。街の頂から突然に鳴り響く、カテドラルの鐘のごとく。幾重にも残響を纏うその声が、私の中に波を起こしていく。波間にきらりと浮かんだ何かが、誘導灯のように閃光を放った。
『薔薇の花言葉を知ってる?』
 我が身をかき抱いた両腕に、過ぎたはずの季節の生温かい風を思い出した。絵具の匂いを逃がすため、いつも細く窓を開けているあの部屋で。着物から伸びた私の腕を撫でていった、物言わぬ春の風。
『〈恋〉っていうのよ』
 似ているようでそれよりも少し冷たい、シルバーリングがいつまでも温まらない、あの手。山岳の冬を纏った目。晴れやかな青空が時折白く曇るように、ふとしたときに低くなる声。
「群山さん、これ……」
 私の中から消えたはずの、久藤八積という人間のすべてが、粒子となって舞い戻ってきて再び構築されていく思いがした。我に返って隣を見れば、片山くんは震える手で絵を指差したまま、冗談だと言ってくれとでも乞うような目で私を見ている。辺りのざわめきは静まる気配を知らない。称賛に交じって、ありとあらゆる憶測や冷やかしめいた言葉が飛び交う。
 久藤くんの絵は、それらをすべて黙って受け止めていた。
「片山くん、ごめん。私……」
「群山さん?」
 どくどくと喘ぐ心臓をシャツの上から押さえて、私は顔を上げられずに言った。自分の目が何を見ているのか、分からなくなりそうだったのだ。私の中に再構築された久藤くんの後ろ姿が、あまりにも近くて、大きすぎて、前が見えない。
 彼は背中を向けたまま、私の心臓を握り潰す。熱すぎて一瞬冷たいのだと錯覚してしまう、その手で。


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