三章 音楽祭


「いいわよ、重いし」
「文庫だから」
「そうは言っても、あなたいつも本持ってるんだから、二冊三冊になるじゃない。どうせ同じ駅なんだし、わざわざ持ち歩かないでも、今度うちに来るときに持ってきてくれたらいいわ」
「そう……?」
「私も、学校に画集持って行くのは重いし。そんなに急ぎじゃないから」
 久藤くんがそう言うなら、そうさせてもらおう。実際、本を持ち歩くのは慣れているけれど、決して軽い荷物ではない。歩いているときは平気なのに、電車に乗るとかばんの重さをずしりと感じる。
 分かった、と返事をした私に、彼はええ、と心なしか穏やかな口調のまま答えた。
「それじゃ、課題やるわ。おやすみ、未央」
「あ、うん。おやすみ、久藤くん」
 誰かと寝る前の挨拶を交わし合うのなんて、実家を出て以来、なかったかもしれない。久しく口にしていなかった言葉に躓きそうになりながら、私は切れた電話をテーブルに置いた。
 おやすみ、がひどく似合う声だったな、と思う。何か機嫌の良くなることでもあったのか、何なのか。あまりに穏やかに喋るから、何だか私と彼の関係を忘れて、余計なことまで色々と話しそうになってしまった。
 片山くんという友達ができて、話し癖がついたかなあ、などと考える。ドライヤーを取って髪を乾かし、私は一応、本棚から『オセロー』を出しておこうと手を伸ばした。


 文化ホールはT大から駅を越えて反対側の、果物屋や靴屋など、昔ながらの商店が並んだ通りの終点にあった。このホールの前までは商業地域だが、ホールを越えると建物の雰囲気が一気に変わる。住宅地が広がっているのだ。一軒家は少なく、ほとんどが近隣の学生の利用する小さなアパートだが。
 スマートフォンの画面を最後にもう一度確認して、私はホールの入り口に立っている人の前へ足を進めた。
「片山くん」
「……群山さん!」
 声をかけると、パンフレットを片手にスマートフォンを操作していた彼は、弾かれたように顔を上げる。私が来ないものだと諦めかけていたかのように。おはよう、という時間でもないのでお待たせ、と言えば、彼は全然と首を振った。
「行こう。もう開場してる」
 見渡せば、同じT大の生徒らしき人たちを中心に、親子連れや初老の夫婦など、それなりに観客が集まり始めていた。〈受付〉と紙を貼った小さなテーブルに、チケットを求める列ができている。
 私たちは学生証を手に、列の最後尾に加わった。ホールの扉からは本番に向けて音色の調整をする、トランペットやチェロの音がかすかに聞こえてくる。

 コンサートは六時半に開演し、ドヴォルザークの交響曲〈新世界より〉で幕を開けた。一曲目ということで、年齢層を問わず紹介しやすい小説に登場する曲を選んだのだろう。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が、奏者たちの背景に青く光らせたスクリーンの中を、白抜きの文字となって天の川のように流れていった。
 音楽はすべてを演奏するのではなく、有名なフレーズを上手に繋ぎ合わせて編成した楽譜が使用され、オーケストラにあまり馴染みのない私たちのような若者にとっても、飽きの来ないプログラムが組まれていた。〈雨だれ〉〈きらきら星〉〈フィガロの結婚〉……旋律を思い出せなくても、どこかで聞いたことのあるタイトルが続く。演奏が始まって少し経つと、ああこの曲か、と分かるものがほとんどで、私と片山くんはその度に目を合わせて無言で微笑み合った。
 一時間半余りの、充実した演奏会だった。最後に配られたアンケートを記入して受付に投函し、私たちはホールの回転扉をくぐった。しっとりとした梅雨の夜の風が手足に纏いつく。空はすっかり暗く、一等星の銀色に私はフルートの音色を思い出した。
「楽しかったね」
「うん」
「小さいコンサートだって聞いてたけど、思ったよりずっと立派だったな。正直、もっと軽いのを想像してた」
 熱の冷めやらぬ様子で、片山くんが言った。私も同じ気持ちだ。地域の合奏団が開くコンサートなどというから、チケット代も安かったし、さほど大きな期待はしていなかったのに。予想を遥かに上回る演奏に、すっかり圧倒されてしまった。
「群山さん、この後は?」
「後って?」
「なんか、夕飯とか食べて帰る? もう遅いかな」
 余韻に足を掴まれていたから――というわけではないが、私は片山くんの言ったことがすぐにはぴんと来ず、夕飯、とまで言われてから意味を理解した。そうか、友達というのは用事が済んだら解散ではなく、一緒に食事をしたりぶらぶらしたりするものなのか、と焦ってかばんを漁る。
 スマートフォンを探したのだ。私はあまり腕時計をする習慣がなく、いつも画面に映るデジタル時計で済ませていた。指先に当たった硬質な角を掴んで、慣れた手触りでボタンを押す。ぱっと画面が点灯した。瞬間、私はさあっと血の気が引いて、かばんの中からスマートフォンを引っ張り出した。
「群山さん?」
 着信が二件、入っている。久藤くんだ。一件は一時間前、もう一件はつい十五分くらい前。演奏中は振動音も意外と響くかもしれないと思い、サイレントにしてあったのがいけなかった。途中でこっそり確認しようと思っていたのに、コンサートが思いのほか楽しくて、失念してしまっていた。
「群山さん、どうかした?」
「あ……っ、ごめん、ちょっと電話してもいい?」
「ああ、いいけど」
 焦りに気づかれないよう、笑顔を作る。片山くんに背中を向けて、無意識に縋るものを探して街灯の下に歩いていき、片手を柱に添えて折り返し発信のボタンを押した。
 呼び出し音が三度、四度と静かに響く。
「未央?」
 やがて機械音が唐突に途切れ、久藤くんの声が「もしもし」もなく私を呼んだ。
「久藤く……」
「どうしたの。……なんでそんな小さな声で喋ってるの? あなた、今どこ?」
 矢継ぎ早に問われて、びくりと肩が縮こまる。電話に出なかったことを、怒っているのだろうか。剣呑な声は、昨夜とは違う意味で別人みたいだ。日頃の明るい久藤くんからは、想像もつかない。
 ちらりと後ろを向けば、少し離れたところで待っている片山くんと目が合った。久藤くんとの電話だと察されたくない。急いで切り上げなくてはと、口を開く。
「えっと、出かけてて」
「どこ」
「……っ、T大の傍の文化ホール。コンサートに……片山くんと」
 一瞬、通話口のむこうが水を打ったように静まり返った。息遣い、というほどのものではないけれど、電話をしていれば自然に感じられる気配のようなものが消えて、ふっと空気が温度を下げる。
 それは昔、出来心で塾の帰りに寄り道をしたとき、母親からかかってきた電話の冷やかさに似ていた。叱られる、と感じた私は、咄嗟に先回りして口を開いていた。


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