第三幕:白い鳥の夢


「ほら、もう夜が明ける」
 その姿が、みるみる高く、遠ざかっていく。底なしの穴に落ちていくような、朝が来る。カッシーアは舌を噛まないように、それ以上は何も言わなかった。


 わっと、勝者の決定に観戦席は熱気に包まれた。弾かれた剣が宙を舞い、乾いた音を立てて地面に落ちる。
「優勝者、ミカエル・サーチュアル親衛隊長!」
 審判の声がその名を口にした瞬間、闘技場を囲む騎士や隊員たちから喝采が起こった。掴むべき人が掴んだ、予想された勝利だ。でも、与えられた勝利ではない。彼はそれを、実力と誇りをもって掴みにいった。
「やはり強いのう。今年で五年連続だ」
 ワイアットが拍手を送りながら、満足げに教える。武闘大会の観戦が初めてのカッシーアを気遣って、自ら隣に座り、ルールや戦況を教えてくれた王は、ミカエルの優勝を己のことのように誇らしく思っているようだった。
「途中、一度ひやりとしましたが」
「何、相手も副隊長だ。あれくらいはやってくれんとな」
「隊長と、副隊長の一騎打ちですか。お二人とも、立場に恥じない強さを備えていらっしゃるのですね」
 うむ、と王は頷く。彼はカッシーアが試合中、際どい剣戟から一切目を背けない度胸の持ち主であることに気づいて、大会の途中からはカッシーアの様子も楽しみのひとつになっていた。食い入るように闘技場を観る目線の強さは、王女というより、女王の器だと王は思った。幼少期からそのような子供だっただろうか。戦争に忙しかったせいか、思い返そうとすると、カッシーアの思い出はひどく濁っていて見通しが悪い。
 親子だというのに、薄情なものだ。
 内省する王の胸の内など知る由もなく、カッシーアは鳴り止まない歓声の中で、決勝戦に挑んだ二人が握手を交わすのを見ていた。一言二言、何か言い合っているのが見て取れたが、声はここまでは聞こえてこない。穏やかな表情だけが、互いの健闘を称えるものだったのだろうと伝えてくる。
 結ばれていた手が離れ、月桂樹の冠を持った審判が戻ってきて、ミカエルの視線がはたとカッシーアを捉えた。
 傍から見れば、王族席に向かって。けれど彼は確かに、カッシーアに向かって微笑みを浮かべ、兜を脱いで深く一礼した。
「どうした? 労ってやりなさい」
「あ……」
「最高の笑顔を見せてやるだけでいい。それが一番の喜びになるというものだ」
 息を呑んだカッシーアに、王が囁く。闘技場を囲んだ人々は、誰も、何も口にはしないが、ミカエルの礼が彼女に勝利を捧げるものであったことは、近頃の二人の様子を知っていればあえて噂などせずとも確かだった。
(おめでとう、貴方を祝福するわ。そして……)
 引き結んだ唇を緩めて、カッシーアはその顔に、惜しげのない笑みを咲かせる。
(約束の褒美を、今夜)
 今晩、塔の鐘が九時を打つ頃、屋上の庭園で。
 待ち合わせを心の内で繰り返して、重ねていた視線を外し、拍手で称えた。月色の髪が、青く瑞々しい栄冠を授かる。今日一番の喝采が、辺りを一斉に包んだ。

 ドレスの上に薄いカーディガンを一枚はおって、カッシーアがやってきたとき、庭園は月の明かりに照らされてすべてのものが仄青く光を放っていた。遠く、薔薇園の奥に建っている噴水の流れる音だけが、かすかな風のようにさわさわと鳴り続いている。
 鳥たちは寝静まって、息をするものの気配はカッシーアの他にひとつもなかった。彼女は空を見たり、月光の輪郭を纏った花壇の葉を触ったりして、しばしそこで待った。
「カッシーア」
 細くねじれた鉄の門が忍ぶように開かれる音がし、暗闇の中に、淡く光るような待ち人の姿が浮かび上がった。眺めていた花から手を離し、彼に駆け寄る。ミカエルは月明かりで視認できる距離にカッシーアを見とめて、ほっと息をついた。
「すまない、待たせてしまって」
「何かあったの?」
「宰相殿に捕まっていたんだ。祝福の言葉をいただいたよ」
 カッシーアは納得して、苦笑した。ここの宰相は、良いことも悪いことも、話がくどいのだ。
 少し歩こう、と促されるままに、ミカエルについて庭園の奥へ入っていく。途中、足元が暗いからと差し伸べられた腕に、カッシーアは躊躇いながらも手をかけた。
「わ……」
 植込みの影に寄り添って、庭園の一角を曲がったとき。目の前に、突然鏡が落ちているのかと思った。カッシーアを驚かせたそれは、湖だった。庭園の奥に造られた、噴水と水を共有している、人工の小さな湖だ。
 水面いっぱいに、夜空の星が青白く映り込んでいる。目に見えないほどの水流に震わされてきらきらと輝くそれが、遠目には鏡のように、一面の銀色に見えるのだった。
「こんなに綺麗な湖だったなんて」
 嘆息して、カッシーアが畔から月を覗き込む。ここには昼間、何度も来ているが、あまりこの湖についてどうという印象を抱いたこともなかった。真昼の明るさの下では、人工的な石の囲いが目立つ、味気ない水槽のような見栄えだったのだ。噴水の水を循環させるための、事務的な装置なのだと思っていた。
「驚いたか?」
「ええ、とても。貴方はこの場所を知っていたのね?」
「教えたら、貴女はこっそり部屋を抜け出してきそうだからな。城内とはいえ、こんなひと気のない場所を夜に一人で出歩いて、もしものことがあったら困る。傍にいられるときに連れてこようと思っていたんだ」
「そう、だったの」
 まるで自分が仕様のないお転婆のような言われ方に、カッシーアは最初、反論する気でいたが、聞いているうちにその気は削がれてしまった。むしろ、最後まで聞くころには、ミカエルの顔をまっすぐに見られなくなっていた。
 彼はいつから、カッシーアをここに連れてくるつもりでいてくれたのだろう。いつから、自分が傍に立って、見守るつもりになってくれていたのだろう。そんな疑問ばかりが胸を占めて、静寂に心臓がいつもより大きく鳴った。
 まるで体を抜け出して、鼓動が夜の中に浮かんでしまったかのようだ。宙に浮かんだそれを掴んだのは、取り返すべきカッシーアではなく、透き通る金のヘッドドレスを毀れ物のようにかき分けて、彼女の肩に触れたミカエルだった。
「……困ったものだな。私は貴女の前に立つと、どうにも冷静で忠実な良い臣下ではいられない」
「ミカエル?」
「もしも貴女の目に、今の私が普段通りに見えているなら、それは薄皮一枚の装いにすぎない。カッシーア、私は――」
 ミカエルの肩が、強張った呼吸でかすかに上下した。その一瞬の動きで、カッシーアは彼が何を言おうとしているのか、ようやく察した。
「待って!」
 手を振りきって、逃げるように一歩下がる。ミカエルが目を瞠った。踵が湖の縁に当たり、カッシーアはそれ以上下がれないことを理解して、口を開いた。


- 11 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -