第三幕:白い鳥の夢


 城の屋上に造られた空中庭園の上、惜しげもなく降り注ぐ日差しを受けた彼の髪は、日光に溶けてゆきそうな淡い煌めきを纏っている。その横髪が片方だけ、わずかに短くなっているのを見て、カッシーアは労わるように手を伸ばした。
 先日の訓練で、この城の王子と手合わせをしたときに切れたものだ。次代の国王と噂される王子とミカエルの試合は見ごたえのあるもので、互いに一歩も譲らず、ミカエルが髪を一束、王子が兜の羽根を一枚散らしたところで、引き分けの判定が下った。
 カッシーアの指先が、不服そうにその一束をにじったことに気づいて、ミカエルの眸に苦笑が浮かんだ。
「本当は勝てたくせに」
「手を抜いたつもりはないよ」
「でも、勝利よりパフォーマンスを取ったわ」
「公開訓練とは、そういうものだ。勝って名誉を得るために戦うのではなく、対等に剣を交える王子と私の姿を見て、親衛隊を志す者が増えてくれたらいい。それが目的なんだ」
 もっともらしいことを言われて、返す言葉をなくしてしまう。確かに、イスタファでも似たような伝統があり、王宮の衛兵と民間の有志がトーナメント戦を行うというものだった。あれも、民間から有望な人材を見つけ出すことを目的とした催しだ。衛兵には勝つことよりも、素質のある民間人の能力を引き出すことが求められていた。
「一位でないとご不満か?」
「そういうわけじゃないけど……、王子が持て囃されて、貴方がその程度みたいに言われるのが嫌なの。さっきもそんな話が聞こえて、ミカエルを馬鹿にしないでって、メイドたちの休憩室を蹴破っちゃったわ」
「それは、さぞかし向こうの顔が青ざめただろうな」
「平謝りしてたけど、私が謝ってほしいのは私じゃないのよ」
「そんなに腹を立てないでやってくれ。何を言われようと、私は気にならないよ。本当のことを分かってくれる相手は、世界に一人いれば十分だ」
 ミカエルの言葉に、今度はカッシーアが視線を上げた。膨れていた頬に、ほんのりと赤みが差す。暗に自分が、彼にとっての「世界でただ一人」だと言われた気分がした。
 そしてそれは、あながち思い上がりでもなかったのか、ミカエルは無意識にこぼれた本音の後に続く言葉を探すように、開きかけた口を閉じて、ふっと微笑んだ。
 クルル、と鳩が後方で鳴いて、短い沈黙は終わりになった。
「先の話に、戻るようだが」
「ええ、何?」
「翼があれば、貴女はどこかへ行きたいのか?」
 何の話だったか思い出すまでに数秒かかって、カッシーアはああ、と思い返す。そういえば、そんなことを呟いたかもしれない。
「そうね。ずっと、そう思っていたわ」
「そう、なのか」
「だって、閉じ込められているわけでもないのに、どうしてひとつの場所に留まっていられるかしら。翼があったら、どこまでだって行くわ。楽しいことや、綺麗なものを探して毎日飛び回って――同じ場所に戻ってくることなんて、二度とない気がする」
 想像して、カッシーアは目を閉じて春の風を吸い込んだ。胸を膨らます、この風に乗って、翼を広げるだけで世界の反対側までだって自由に飛んでいけるのだ。きっと、毎日が最高の気分に違いない。
 両腕を広げて、鳥を真似るようにくるりと回ってみれば、ヘッドドレスとスカートが思いのほか大きくひるがえった。本当に、一瞬空を飛んだかのようだった。楽しくなってもう一度回りかけたカッシーアの腕を、ミカエルの手が強く掴んだ。
「今も?」
「え?」
「貴女は今も、そう思っているのか? 自由になれるなら、今すぐ飛び立って、二度と戻ってはこないと……」
 翡翠色の眸が、いつになく射抜くように、カッシーアを見つめている。瞳孔の奥を見透かされるような力強さと、芯に揺れている悲しげな切迫感に、カッシーアは囚われたように動けなくなった。
「私がここにいて、こんなにも貴女に、」
 囚われているというのに、と聞こえたような気がした。気がした、としか言えないのは、カッシーアはそのとき、滲むほど迫ってきたミカエルの顔を見て、何も聞こえなくなっていたからだった。
 蘭の香りが、二人の胸の間から立ち昇る。
 彼女は咄嗟に、ミカエルの肩を突き飛ばしていた。
「カッシーア」
「あ……っ、ごめん、なさい! 今のは」
 名前を呼ばれて初めて、自分が彼を拒んだことに気づいて我に返る。カッシーアは焦って、切れ切れに弁解の言葉を並べた。嫌だと思ったわけではなかったのだ。ミカエルを否定したわけではない。ただ。
「……いや、そうだな。今のは私が悪かったよ。確かな言葉を交わす前に心を確かめようとするなど、男として卑怯なやり方だった」
「ミカエル……」
「今度……、一週間後だ。城で武闘大会がある」
「武闘大会?」
「この間の公開訓練とは違う、個人が実力と名誉を賭けて競う、本当の試合だ。どうか観に来てくれ。そして、勝利を捧げた暁には、褒美に私の胸の内を貴女に聞き届けてもらいたい」
 ただ、怖かったのだ。口づけをしてしまったら、何かが元に戻れなくなるような予感がした。ミカエルという人間が、カッシーアの中にその魂の一部を吹き込み、たったひとつの椅子に腰を下ろして、永久に留まってしまうような予感がしたのだ。
(それは、いけないのよ。だってこれは夢なんだから。現実の私は、口づけどころか、恋をしたこともない人間のはずなんだから)
 心に誓った人など、いてはいけないのだ。返事を躊躇うカッシーアの手の甲に、ミカエルは敬愛の口づけを落として、話を終わらせた。
 ウードの音色が、どこからともなく聞こえてくる。カッシーアは静かに深呼吸をして、歩き出した彼の背中に、目を閉じた。

「おかえり」
 男でも、女でもない。少年のように悪戯で、姉のように気怠い声が、鼓膜を突く。
「……やりすぎよ。現実の私に、影響を残すようなことをしないで」
「何の話かな?」
 開口一番、不機嫌な声で忠告したカッシーアに、夢売りは宙に浮かんだままくすくすと笑った。すべて知っているのだろうに、白を切るつもりか。無言で睨んだカッシーアの視線を受けて、ウードを片手に、肩を竦める。
「言っておくけどね、僕が創っているのは夢の舞台だけだよ」
「どういう意味?」
「脚本は書いてないんだ。夢の成り行きを操っているのは、君自身だよ」
 カッシーアが目を瞠った。夢売りはゆるりと胡坐を崩して、どこから取り出したのか、真鍮を巻いた白蛇のような細長いパイプをふかした。


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