第1章


 タフリールが〈月の都〉と呼ばれる理由は、諸説ある。
 一説によれば、三日月形のオアシスの内側に築かれた町だから。あるいは、明かりが絶えることなく灯っていて、夜の砂漠でもタフリールは煌々と輝いて見えるから。月の使者が降りてきて築いた町だ、などという説まである。どれが正しいのか、あるいはどれも正しくないのかは分からないが、つまるところタフリールは、誰の目にも輝かしくて壮麗な都だった。
 町は中心から緩やかな山になっている。礼拝堂が一番の頂にあり、その下が店や住居、ふもとへ向かうと隊商宿やバザールが、それよりさらに郊外には農場や魚市場が並ぶ。
 人で賑わうバザールの狭い通りをくぐり抜けるとき、氷砂糖とレモンを浸した甘い水を一杯買い求めて、タミアは感動を覚えた。底に薔薇の描かれたグラスに注がれたその水は、今まで目にしてきたものの中で一番綺麗だと思った。バザールには、そういうものが星の数よりたくさんあった。
 錦織の絨毯、箱の中の刺繍糸、金細工のブローチ、薄絹のスカーフ。
 店主たちは水煙草をくわえて、明らかに田舎から出てきたばかりの娘と分かる、木綿のワンピースとぼろのブーツ姿のタミアが、好奇心に押し負けて店を覗くのに見て見ぬふりをした。接客もしないが追い出すこともしない。あらゆる人の行き交う都ならではの、買い物をしない客にも慣れた寛容さがあった。
 鮮やかな品々に目を奪われて、タミアは次から次へと店を眺めて歩いた。いつかあんなエメラルドの髪飾りをつけて、金のブレスレットとアンクレットを薄絹のドレスから覗かせて、このタフリールを颯爽と歩ける人になってみたいものだ。そのためにも、まずは魔法使いアルヤルに会わねばなるまい。
 無限に続く夢か宝石箱のようなバザールを抜けて、タミアはようやく、町の中心近くへとやってきた。天頂にあった太陽はいつしか傾きかけ、上り坂に影が長く背を伸ばしていた。

 街角の酒場の窓に、ぽうぽうと明かりが点き始める。ひとつふたつ、やがて宿屋の窓にも灯り始め、数えきれなくなった。
 薄緑の蝶がはらはらと、石の植え込みの上を飛んでいく。反対側の植え込みに座って足を投げ出し、タミアはそれを追うともなしに目で追って、ため息をついた。
「どうしよう、どこにもいない……」
 魔法使いアルヤルを、知らないか。
 道行く人を窺ってそう問いかけながら、タフリールの町を歩き回ること早数時間。タミアは自分の考えが甘かったことを、つくづく思い知らされていた。人探しというのはもっと、楽にいくものだと思っていた。故郷の村は人が全員、誰かの知り合いや家族であるような小さな村だったから、知らない人でも尋ね歩けば見つかるのが普通だった。
 タフリールは、その何倍、何十倍もの人が常に動き回っている。定住している人よりも、旅人や商人の数が多い。来訪者の多い町は、個々の人間への頓着が薄い。名前くらいしか情報のない魔法使いを探しているなど、誰に訊いても同情の顔をされるばかりで、足跡ひとつ掴めなかった。
「お腹空いたなー……」
 ぐう、と鳴った自分の腹と話すように、タミアは下を向いて呟いた。ふもとのバザールの明かりが目に入る。屋台もたくさんあったことを思い出し、行きたい気持ちに駆られるが、だめだと首を振った。
 そもそも、バザールで無駄に時間を費やしてしまったことが今、自分を困らせている。アルヤルは名のある魔法使いらしいから、きっと夜はどこか、良い宿をとってしまうだろう。そうなったら見つけることなどできない。
 ポケットから財布を取り出して、中身を確かめる。紙幣が二枚と、小銭がいくらか。一泊の宿代としては十分すぎるくらいだが、一週間を過ごすには食費だけにしても最低限だ。アルヤルを探すのに何日かかるか分からないと理解してしまった今となっては、宿など泊まれる気分ではない。これを使い切ってしまったらタミアは無一文である。
「ああー……、もう!」
 かといって、見知らぬ町で野宿は怖い。タフリールに着いてすぐは華やかな人々ばかりが目に留まったが、日暮れが近づくにつれて、タミアの目にも光の陰に様々な面があることが見えてきた。路地で酔い潰れている老人、座り込んで雑踏を見上げている物乞い。野宿のできるような暗がりには、そういう暗がりの人種が陣取っている。
 なんとかして、一晩を安全に明かせるところか、アルヤルを見つけなければ。
 疲れた足に喝を入れて、タミアは立ち上がり、宿屋の立ち並ぶ一角を歩き始めた。宿のあるところには飲食店も軒を連ねる。レストランの看板を見たが、初めて見る名前の料理ばかりが書いてあって、値段の想定ができなかったので入るのは諦めた。
 裏通りの店は、少し狭くて雑然としているようだ。もう少し近くで見てみたかったが、手前の細い道を塞いで話し込んでいる二人組がどことなく怖くて、傍を通るのが躊躇われた。
 アルヤルを探したいが、空腹も限界に近い。あわよくば、夜通し開いていそうな安いレストランで朝を待ちたい。タミアは迷って、他の道がないかと近くの角を曲がった。酒場の裏口らしきドアがあり、大きな酒樽が置かれている。
 その脇を、何の気なしに通り抜けたときだった。


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