第1章


「う……」
「ひゃああっ!?」
 ふいに視界に、白いものが飛び込んできた。もぞりと動いたそれに、タミアは飛び上がって悲鳴をあげた。暗がりに溶ける褐色の手が、金切り声を振り払うように耳をおさえ、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱す。
 男が一人、酒樽の陰に座り込んでいた。
「あの、大丈夫ですか? どこか具合でも……!」
 襟足の伸びた真珠色の髪を見て、タミアは彼を老人かと思い、身を屈めた。次の瞬間、腕を掴まれて、思い切りバランスを崩した。
 片手を掴まれ、片手を男の肩につき、ほとんどのしかかるような格好になって初めて気づいた。青年だ。
 驚きのあまり叫び声も出せずにいるタミアを引き寄せて、彼は左手で目深に被っていたターバンを持ち上げた。真珠色の睫毛に縁取られた、青灰の眸が一瞬、覗く。頬と瞼が腫れ上がっていることに気づいて、タミアは息を呑んだ。けれど、それ以上に。
「ああああ、ああ、あなた……っ」
「あ?」
「は、離して! なんで裸なの!?」
 掴んでいる肩が素肌であることのほうが、大問題だった。暗がりと肌の色が相まって分からなかったが、腕も足も、何も纏っていない。
 真っ赤になってパニックを起こしかけているタミアに、青年は自分の体を見下ろして、面倒くさそうに舌打ちをした。
「うるせえなァ。裸じゃねーだろ、この通り肌着は残って」
「めくらないでよ! ほ、ほとんど裸と一緒じゃない」
「そーなンだよ。だから、通りすがりのお前に、オ、ネ、ガ、イ、がある」
 ぐ、と腕を掴む力が強くなった。タミアは青年の猫撫で声に、嫌な予感が背中を駆け上がるのを感じた。
「金貸してくんない? ちょっとでいいからさ」
 予感は、結構当たるものだ。
 軽薄で、どこか人を突っつくような口調と、口許のにやにや笑い。およそ施しを乞う側とは思えない。
 真剣味がないのだ。青年の態度が、初めは驚いていたタミアを冷静にさせた。
「嫌よ」
「即答かよ」
「嫌っていうか、無理よ。私お金に余裕ないもの」
「だろうなァ」
「納得なの? そりゃ、豊かには見えないでしょうけど、失礼ね」
 貸せる金はなくても、こうも素直に同意されると何とも言えず頭に来る。タミアは青年の手を力づくで振り払った。
「分かってるなら、あてにしないで」
 一時でも、大丈夫かなんて心配して損をした。人に親切にしたことを後悔したのは、これが初めてだ。またひとつ、タフリールで学んだことが増えた。
「なあ、知ってんだろ? 砂漠の夜って、寒いよな……」
 背中を向けたタミアに、青年が細々と語りかけた。
「月の都といえど、それは変わらねえンだよ。この細い屋根と屋根の間に月が見えるころには、凍えるほど寒くなって、真昼の暑さが恋しくなる」
「だから何だっていうの……」
「つれないこと言うなよ、なァ。お前に見捨てられたら、俺、たぶん凍え死ぬぜ。嬉しかったんだよ、お前が通りかかったとき。お迎えに来た天使でも見てるんじゃねえかと思って、思わず手が伸びちまったが」
「……」
「なー、お前だけが希望なんだよ。お前が助けてくれなかったら、こんな路地に転がってる人間一人、死んでも見つけてもらえる気がしねェよー。雨に打たれて、何晩も凍えて、死んでも凍えるなんて、極悪人の最期より報われないぜ」
 タミアはそろそろと振り返った。酒樽の陰から、青年の寂しげな腕がぷらぷらと、いなくなったタミアを探すようにさまよっていた。
 こんなのはただの、見え見えのお芝居だ。こんなに元気に喋る人間が、そうすぐ死ぬわけがない。
 でも――砂漠の夜が冷えるのは、ここからかなり遠く離れた場所とはいえ、オアシスの村で育った身としてよく分かっている。
 冗談が冗談では済まなくなることも、ないとは言えない。少なくとも、肌着で過ごそうなんて生まれてこの方、思ったことはない。
「なー。戻ってきてくれよ」
 タミアは一歩、足音をひそめて、青年に近づいた。
 それから数秒迷って、口を開いた。
「ごめんなさい、まだいるんだけど」
「おお」
「あなたの力にはなれないわ。私、このお金でやらなくちゃならないことがあるの」
「俺が死んでもか」
「そういう言い方は卑怯よ……タフリールで見つけなきゃいけない人がいるの。魔法使いアルヤルっていう」
「――アルヤル?」
 ふっと、青年の声にそれまでなかった生気が漂った。あれ、と思わず押し黙ってから、タミアは慌てて問いかける。


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