第4章


「ログズ、……えっと」
「んー?」
 耳元に落ちる、上機嫌な声。名前を呼んでしまうとふと、忘れかけていた近さが明白になる。
「ありがとう、ね」
 妙に緊張して上擦りそうになる声を押し隠して、タミアは短く礼を言った。ん、と答える声の気だるさが、やけに耳朶へ絡んだ気がして焦る。
「ま、約束したしな。杖探すのに協力したら教えるって」
「そうだけど、思ったよりちゃんと教えてくれるんだなって」
「ありがたがるのか貶すのかどっちかにしろよ。……つうかさ、お前」
 なぜだか振り返れずに、タミアはごくりと固唾を呑んだ。どうして今、ジャスミンの香りを思い出したりするのだろう。もうその香りはしないはずだ。糸を手繰られた糸巻のように、心臓が動いた。
 ぐに、と。耳が引っ張られて、頭がログズの額にぶつかる。
「この程度で真っ赤になるくせに、よく今まで同じ部屋に寝てられたな」
 痛さと動揺にかき消されて、一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。え、と振り返ってまじまじとその顔を眺め――意味が理解できた瞬間、タミアは両手を思い切り突っ張っていた。
 今度は予期していたように、ひらりと身を躱してログズは立ち上がる。ケラケラと背中を丸めて笑っている姿に、タミアは何度も砂を投げつけた。
「からかわないで! それは、お金を節約するためっていうか……!」
「大胆な節約術だよなァ」
「あなただって別に、私みたいな田舎娘相手にどうとも思わないでしょ? ていうかねえ、元を辿れば節約するはめになったのもあなたのせいだし!」
「はいはい、イテッ。お前、小石はやめろ小石は」
「うるさい! ちょっと、どこいくのよ」
「ションベンだよ。一緒に行くか?」
「あああ、行かない、馬鹿! あなたってほんとやだ!」
 熱くなったり青ざめたり、頬が忙しい。喚くタミアにひらひらと手を振って、ログズは砂の丘を歩いていった。後ろ姿がまだ笑っている。本当に、腹立たしいことこの上ない。
 あんまり見ているとまた余計なことを言われそうだ。タミアは焚火に向き直って、乱れた髪を直し、膝を抱えた。夜風の冷たさを、しばらく忘れていた気がする。指先を火に当てて交互に温めていると、我知らず長いため息が漏れた。
「……ほんと、何を今さら」
 馬鹿馬鹿しいにも程がある。相手を誰だと思っているのだ。何かやらかしはしないかと巻き添えにされるのを警戒するならまだしも、緊張なんてするような間柄とは程遠い。
 吊り橋効果とかいうやつか。タミアは現状を思い出して、ひとり納得し、膝頭に顔を埋めて笑った。大都市から追放されて、真っ暗がりに二人きり。世界中が敵になったような錯覚と、互いだけが味方だという、わけもない信頼感。
 タフリールに来てから、想像もしていなかったことばかり身に起こっている。そのすべての傍らに、ログズがいる。
 彼は、魔術師だ。平凡な十七年の人生を、たったの三日で極彩色に変える。
 だいぶ落ち着いた頬に手を当てて、薪を足そうかと立ち上がったとき、背中をぽんと叩く手があった。
「ああログズ。戻ってきたの――」
 強張りのとけた自分の声に、普段の調子を取り戻せた、と安心したのも束の間。
 振り向いたタミアは、頭の芯がひやりと凍りつくのを感じた。
「――おウ」
 に、と唇を吊り上げて笑う。表情も、猫背がちな姿勢も、何も変わらない。でも、見間違うはずもない。
 そこに立つログズは、赤紫のシャツを着て、ターバンの代わりに金とターコイズのメダルの連なった首飾りを、額に飾っていた。
 心臓が氷の手で掴まれているように、どっ、どっ、と脈打つ。何分間にも感じられる一瞬の沈黙の後、タミアは気丈に微笑んで、焚火を示した。
「座ったら? 寒かったでしょ」
 ジンが、ログズのふりをしていることに気づいたからだ。
 親しげな表情も、今帰ったという挨拶も、彼がログズとタミアの関係を知った上で近づいてきた証拠である。もしかしたらばらばらになるときを窺っていたのかもしれない。そうだとしたら、逃すわけにはいかないチャンスだ。
 ログズが帰ってくるまで。タミアはジンを引き留めるため、芝居に乗った。
「いヤ……」
「なに? どうかした?」
「移動しよウ、ここ、見つかりそうなんダ」
 喉を絞ったように、低く押し殺した声で、ジンは喋る。ログズの声に似せているが、語尾のたどたどしさが人間らしさを欠いていた。タミアは気づかないふりをしながら、ちらと遠くを見やる。
 暗闇に、帰ってくる人影はない。
 ざっと、砂をかく足音が響いた。
「あ……! 待ってよ」
 ジンがタミアの横を通り抜けて、どこかへ歩き出したのだ。一歩一歩、ゆっくりだが大股に遠ざかっていく。


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