第3章


 なぜだか無性に泣いてしまいそうになって、タミアはその光景から目を逸らした。顔を埋めた肩は骨張って固く、背中を支える腕がかすかに抱き返したような気がした。

 どさりと、背中が赤茶色の海に打ちつけられる。舞い上がった砂が口に入って、タミアは激しく咳き込んだ。
 ごろごろと砂の丘陵を、タミアより幾分か長く転げ落ちて、少し離れたところにログズも着地した。打ち所が悪かったのか、横たわったまま噎せている。やがてずるずると上半身を起こし、タミアを見つけて「おう」とだけ言った。
「おう、じゃないわよ」
「じゃあ何だよ」
「死ぬかと思った」
 ワンピースの裾をはたいて歩きだし、ブーツの中にも砂が入り込んでいることに気づいて、片足ずつ脱いで逆さにする。ざあっと、予想以上の砂がこぼれ落ちた。ログズも立ち上がって、靴を引っくり返す。
「死なない努力はしただろ」
「空中で瓦解しておきながら、よく言うわね……! 飛ばしたんだったら着地まで頑張ってよ!」
「しょーがねえだろ、杖がねェんだから。今ので全力だ」
 何度、死ぬと思ったか――否、死にかけたか分からない。風が防壁になってくれたおかげで怪我もしなかったが、木だの道だの、眼前にあらゆるものが迫ってきた覚えがある。少し酔った。
 ノーコンの自覚はあるくせに、無茶苦茶にも程がある。はあ、と髪の毛に入り込んだ砂を振り払って、タミアは砂の丘をよじ登り、青々とした水の向こうに聳える石の壁を見上げた。
「結構、遠くまで来たな」
「ここまで来れば、追ってこないかしら」
「いや、朝が来れば捜索隊が出るだろ。でも、今晩は諦めるンじゃねえかな」
 隣に立ったログズの意見に、タミアもそうねと同意を返した。
 石の壁の向こうは、点々と明かりが灯されている。頂上に聳える礼拝堂だけが、つい昨晩までは月のように眩しかったのに、今は光をなくしてぽっかりと空いた暗がりに変わっていた。
 タフリールだ。あの明かりの中に、つい先刻までいたのだと思うと不思議な気持ちになる。バザールを越えたタミアたちはそのまま風に乗って、壁を越え、砂漠を滑空し、追手を撒けそうな距離まで飛んできた。
 その時間を、稼いでくれた人を置いて。
 きり、と痛んだ胸の前で手を合わせ、タミアは町の中腹を見つめた。向けられた穂先の威圧感を思い出すと、今も足が震えそうになる。
 副団長は、自分たちを逃がすために、囮となってあの恐ろしい人たちに捕まったのだ。淡い金の髪から覗く凍てつくような眸は、死の天使アズラーイールを彷彿とさせた。
 どうしたら良かったのだろう。後悔しても何もできなかったことに変わりはないが、のどかに育ってきた身には、衝撃が大きすぎてすぐには切り替えができなかった。
 魂が抜けたようにぼんやりと佇むタミアの横を、ログズがすたすたと通り抜けていく。
「どこ行くの?」
「もう少し、正面から離れる。ここじゃ万が一捜しに来られたら、見つかりそうだからな」
「これから、どうするの?」
「ひとまず夜になンのを待つ。で、夜に乗じてどっかから、もう一度タフリールに入り込む」
「……ログズ、あのね、私見たわ。あなたの恰好をしたジンが、礼拝堂の上で笑ってるの」
 歩き続ける後ろ姿が、ぴくりと、かすかに反応した。
 ええとね、と。言葉を探すタミアの脳裏に、バザールで見下ろした人々の眼差しが浮かんでくる。
「だから、例え……あなたが今夜、一晩でタフリール中の人から極悪人にされても、私は疑わないわ。って、別に見てなくても疑いはしないんだけど。なんていうか、その……」
 人間とは、こんなにたくさんいるのか、と思った。あのとき見えた人々が百人だったのか千人だったのか、あまりにも多すぎて見当もつかない。それらすべての人々が自分を、そしてログズを知らず、自分たちを信じる理由をひとつも持っていないのだということが、寂しさの濁流となって堰を切った。
 何か言葉をかけたいだけなのに、上手なことが何一つ言えない。
 だんだんと弱々しくなっていく語尾に唇を噛んだとき、前を歩いていた足が止まって、ふいに振り返った。
「ログ……」
 顔を上げたタミアの視界に、ふ、と影が落ちる。
 真珠色が空を覆う雲のように広がり、心臓が、息を呑む音が聞こえ。
「いたっ!」
 ゴン、とひどく重い音と共に、額に痛みが広がった。
 思わず仰け反って押さえてから、我に返って何事かと睨みつける。ログズは腹を抱えて笑っていた。ターバン越しに額を擦りながら、呆然としているタミアを見て、声を上げて笑う。
「真面目くさって何言うかと思ったら、なんつー顔してんだよ」
「な……、真面目で何が悪いのよ! 私は真剣にねえ、心配して……!」
「バァカ、心配すんのはもっと後でいいンだよ。この世の終わりみてえな顔して。これからだろうが」
 これから。
 あっけらかんと放たれた言葉に、タミアは瞬きをした。信じてくれる友人を捕らえられ、タフリールを追われ、今の自分たちは八方ふさがりではないか。これからなんて、どの方向に飛び込んでも真っ暗闇に思える。
 ログズは呆れたように、両手を広げた。
「アイツも言っただろ、灰を頼む、って」
「灰……?」
「手土産を見せびらかせる相手が増えるなァ? 喜ぶのがハートールだけじゃ、やりがいが足りねえと思ってたんだ」
 ニイ、と残照に髪を染め上げて、ログズは口角を吊り上げた。ハートール。唐突に出された名前に、最後に会った彼の姿や言葉がよみがえる。
 タミアはハッとして、ログズを見上げた。真意が通じたことを察したように、彼は上機嫌にタフリールを振り返って、伸びをした。
「ケシズミにしてやる」
 獲物を見据える獣のように舌なめずりをして、どこまでも愉楽的に呟く。けれどそのとき、タミアは感じた。無数のジンの気配が、ログズの心の声に呼応してざわめくのを。
 感情を、心の声に変えて。
 心の声を力に変える。
 ――魔法使いが、怒っている。
「……そうね。勝てばいいんだわ」
 意を決して頷いたタミアに、彼はいつもの調子で笑った。ないはずの光が切り拓かれていくような、そんな心地がした。


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