第一楽章
蓋を開けようとして、久しぶりすぎて指を引っかけるところが見つけられずにいると、凪が開けてくれた。蝶番の軋む音を覚悟していたが、案外すんなり開くものだ。鍵盤は整然と、幼い頃の記憶のまま、白と黒が褪せたり、溶け出して灰色に混じったりすることもなく並んでいる。
ポーン、と凪の指が一番真ん中の、ドの音を沈めた。私は懐かしい、鍵盤の冷たさを指の腹に思い出して、少し苦笑した。
「何?」
「ううん、おじいちゃんとおばあちゃんにも、悪いことしたなと思って。あの頃、練習してるって嘘ばかりついてたわ。いつも笑って褒めてくれたけど、絶対ばれてたと思うのよね。一度も聴かせなかったから」
ピアノ教室は結局、一年と通わなかった。月謝が高くて、そのくせ練習しない私を見限って、母が代わりに塾へ入れた。私は宿題があって、周りに置いていかれる恥ずかしさがないと、何かを頑張ることに火がつかない子供だった。一人でこつこつ、というのがつくづく下手だったのだ。
ちょうどそれから間もなくして小学校へ入ったので、ピアノは趣味にして、これからは勉強を頑張ることにしたと祖父母には言った。二人は私が中学生のとき、結局一度もこのピアノの音を聴かないまま、一年と開かずに他界した。
「そんなに弾けないくせに、とってあるんだ」
「そう。思い出すと色々胸が痛むわ。もうしまっていい?」
半分冗談、半分本当の気持ちで軽く言うと、凪はちょっと笑って蓋から手を離した。私は思い出をしまいこむみたいに、もう一度、レースのカバーをかける。祖父母が他界してしまったから、余計に捨てがたいというのもあるのかもしれない。二人は私を可愛がってくれたが、遠くに住んでいて、あまりもらったものは多くなかった。
「もう、音も狂ってるから」
弾かないことに、そう言い訳をする。アパートだから、人に聴かせられる演奏じゃないから、音が外れているから。
「調律すればいいのに」
「したって、きっともうだめよ」
ピアノがじゃない。私が、もうピアノを弾かないだろう。
背中を向けた私にそれ以上のことを話す気がないのを悟ったのか、凪はふうんと言って、興味をなくしたようにテーブルへ向かってきた。アイスティー、と説明するより早く、一杯目を飲み干す。喉が渇いていたらしい。
「おかわりは」
「いる」
味わいなさいよ、と言おうとしたけれど、どうせ特にこだわりのない特売品だったと思い出したので、何も言わなかった。そこらへんで買ったポット、そこらへんで買ったコップ。名もないものに囲まれた、名もない生活をしている。
あのアップライトピアノは間違いなく、私が人生で手にしたものの中で、最も「本物」だ。私は、あれを手に入れるべき人ではなかったと時々思う。
「窓、開けようか。暑いわね」
「なんで? クーラー入れればいいじゃん」
空気を入れかえたくて席を立った私の背に、本当に呆気にとられたような凪の声が聞こえた。思わずええっと言いたい気持ちを抑えて、鍵を開ける。
「高いわよ。まだ七月半ばでしょ」
「倹約家?」
「そういうわけでもないけど……、そこまで余裕があるわけでもないわ。見て分からない?」
眉間に皺を寄せて、凪は辺りを見回した。リビングの先にはドアが一枚。私の寝室に続いている。それっきりの家だ。
薄いテーブルとシンプルな椅子、細工のない棚に囲まれた部屋を眺めて、凪は最後にエアコンへ視線を戻し、真面目な声で呟いた。
「エアコンって、高いんだ」
「結構ね。知らないの? 家でお母さんとか、つけすぎないでって言ったりしない?」
「さあ。たぶん年中ついてるし、消してる日とかあるのかな。よく分かんない」
愕然とした。窓にうっすらと、私のぎょっとした顔が写り込む。
「もしかして、貴方ってボンボンだったりする? どっかの社長さんの息子とか」
「そんなんじゃないよ、普通に銀行員」
「普通に、ねえ……」
多分、それは私を含むような、世間一般に言う本当の「普通」とは違うだろう。いわゆるエリート家庭というやつか。言われてみれば服装も小奇麗だし、髪や肌も、年頃の男の子にしては細やかに整えられている。
「凪、貴方っていくつ」
二杯目のアイスティーを飲み干しながら、凪は片手で四を作ってみせた。十四、だろう。
節くれ立った、猛禽類の足のような指だ。なんだか極端だな、と他の部分との印象の違いが瞼に残る。それでもやっぱり、爪は小奇麗に整えられていて、行き届いた家庭の育ちを連想させた。
「なに、じっと見て」
「……あ、ごめん。何でもないわ」
「ふうん? 変なの」
からんと、氷の解ける音が笑いまじりの声に重なった。
暗がりに規則正しい、静かな寝息が響いている。
深夜、足音をひそめて寝室から出てきた私は、リビングの隅に転がったクッションと、そこに頭をのせて眠っている凪の影を見て、声のないため息をついた。
安堵のような、その反対のような。自分でも、なんのため息なのかいまいち分からないため息だ。行儀よく眠っていることには、少なからずほっとした。いくら盗るようなものもないとはいえ、見ず知らずの少年を上げていつも通りに休めるほど、私も能天気ではない。
そうっと近づいて、横顔を覗き込む。ろくな布団もなかったのでバスタオルのベッドだが、よく眠っているようだ。
息を殺してそんなことを確かめながら、不安に思うくらいなら最初から入れなければいいのにと、自分に呆れた。私たちは結局、あれから一緒に夕飯を食べ、なんとなく夜になって、おやすみと言い交わすような時間を迎えてしまった。十分、能天気というか無防備な話かもしれない。冷静に考えなくたって、この状況はおかしい。
住み慣れた私の部屋に転がる、素性の分からない、身一つの少年。
先についてきたのはどちらだったかと言ったところで、世間に知れれば、こんなものはただの誘拐だ。それにしては幼くない。悪い気持ちを起こせば有利になるのは凪で、そうなったとき、私は被害を訴えられる立場ですらない。
(だけど……)
ぴく、とタオルケットに包まった肩が動いて、私のふだん、部屋着にしているパーカーが覗いた。寝室から漏れる薄明りのなかで、凪の白い瞼が、引き攣れたように震える。
そっと、触れないように手をかざして、何とも言い難い、祈りに似た気持ちでその目を覆った。追い出せなかったのだ。強く、突き放すことができなかった。夜が近づいて、帰れと言わなくてはいけないことが分かっていたのに、どうしてもこの少年を外へ出すことを躊躇ってしまった。
脳裏に、石の階段の上で立っていたときの、凪の姿が思い出されて。
落っこちちゃって行くところがない、と言った凪に、十分温かい家があることは分かっている。けれどなぜだか、私がここを追い出したら、彼はどこかへふらりと足を踏み外して、二度とこの世界に戻ってこないような、そんな気がして。
身じろぎしていた体が、再び深い眠りに入ったのを見て、私は彼を起こさないように立ち上がった。
きつく、心臓を抱きしめて眠るみたいに、丸まった背中。馬鹿みたいな錯覚だと思う。けれど私にはあのとき、ゆっくりゆっくり階段を下りてきた凪が、翼を失くして歩き方を思い出せない、危ういイカロスのように見えたのだ。
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