第一楽章


 その少年は、真っ白なシャツで包まれた肩に太陽を背負って、イカロスの如く佇んでいた。
〈朝ヶ丘文化ホール〉――そう書かれた小さな看板の立つ、裏口の前で。
 長い階段の上に立つ彼の姿は、逆光に照らされて一本の木と見まごう影になっている。その影がふいに、すべてを投げ出すみたいに両腕を広げたので、ぼんやりと景色を見回しながら道を歩いていた私は、彼が人影だったことに気づいたのだ。
 神話の一節みたい、と思った。
 糊のきいたシャツの裾を、細い黒のパンツに押し込んで、何にも持たずに少年は佇んでいる。力の抜けたあごは上を向いて、タイの上につんと尖った喉仏を、七月の午後の日差しが真っ白に照らしていた。
 だらしない姿勢をしているのに、その少年にはだらしないところが一切なかった。
 ふと、気づいたように、空を仰いでいた目がこちらを見下ろす。に、と光の白さで上手く見えない笑みを浮かべて、薄い唇を開き、彼は言った。
「あーあ、落ちちゃった。落ちちゃったよ」
「……どこから?」
「すごく高いところ」
 両腕を伸ばして、階段を一段、下りてきながら少年は答える。反射的に聞き返したのは私なのに、返事があったことにも内心びっくりしていた。
 彫刻が突然に喋り始めたみたいな、さっきまで止まっていた時間が急に動かされたみたいな、そんな驚きだ。とん、とん、とゆっくり、少年は下りてくる。閑静な裏道で、遠く、見えない膜の向こう側のように響く蝉の声。私は、彼のローファーの踵が立てる、今にも落ちそうな音だけに、引きずり込まれていた。
 こつん、と最後にその足が、アスファルトを踏む。
「お姉さん、帰るところ?」
「え、ええ」
 正面に立つと、目線の高さも私より若干低い、まだほんの中学生くらいに見える男の子だった。日に透き通る、薄い茶色の目をしている。私の両手が薬局やらスーパーの袋を提げているので察したのだろう、彼はふうんと笑って首を傾げた。
「名前は」
「瀬戸、はづき……だけど」
「へえ、はづき」
 手を伸ばせばすぐにでも届きそうな、遠慮のない距離で問いかけられて、辺りの静けさに押されるように答えてしまっていた。はづき。初めて食べる水菓子でも口に入れたみたいに、繰り返される。たじろぐ私の足にぶつかって、ビニール袋ががさりと鳴った。
「おれ、天川凪。落っこちちゃって、行くところがないんだ」
 少年は囁く。神話の一節の如き風貌にそぐわない、おれ、の俗っぽさに、蝉の声が一斉に帰ってきた気がした。張り詰めていた温い空気が弾ける。はっと見開かれた私の目を覗き込んで、彼は問いかける。
「ついていってもいいだろ?」
 セピアの、日の光なんて浴びたことがないくせに、最初からノスタルジーを帯びて生まれてきたみたいな髪をしていた。肌の際立った白さを見れば、少年があまり外で遊ばない種族の男の子であることは明白だった。
 落っこちちゃって、という。
 思わず、この世に?、と問いかけたくなるような。蝋の翼はどこで失くしてしまったんだろう。
 それが私の、天川凪を見た最初の印象だった。


 静寂にぱちんと、スイッチの音が響く。
 電気が点き、リビングが見慣れた明るさに照らされた。窓から射し込む日の光だけで縁取られて、絨毯の上で絵画のように陰影を濃くしていた家具が、一斉に生活感を取り戻す。止まっていた時間が、思い出されたかのように。一人暮らしの家というのは、外から帰ってくるといつも、抜け殻のなかに戻ってきたような心地がする。
「へえ、結構キレイ」
 狭い玄関で、ドアを開け放したまま靴を脱ぐ私の後ろに立って、凪は真正面に続いたリビングを覗いた。蒸した夏の階段の匂いが、凪の声と一緒に部屋の中へ染み入ってくる。
 小さなアパートの二階にある私の部屋は、階段を上ってすぐのところにドアがあって、私は背伸びをする凪に「落ちないでね」とだけ言った。脱いだサンダルを靴箱に入れて、隣を空けておく。
「お邪魔します」
 ローファーをするりとそこに並べて、凪は軽やかに私の横をすり抜けた。あ、こら、と咎める間もなく、先にリビングへ入っていく。仕方なしに、鍵を締めて、両手に荷物を持ち、凪を追いかけた。白い靴下。この部屋に、人を上げたのなんていつ以来だろう。
「はづき、これって」
「何、ちょっと待ってよ。アイスしまわないと」
 奥へ行った凪を一旦諦め、私はキッチンへ行って、冷蔵庫を開けた。買ってきたものを冷蔵庫に入れ、アイスを冷凍室に入れようとして、入らずに箱をばらす。角が少し溶けかかっているのは、帰り際に思わぬ足止めがあったからだろう。
 その足止めを振り返れば、彼は部屋の奥に立って、私の唯一散らかしている一角を、まじまじと見つめていた。
「あんまり見ないでよ。その辺は、普段使ってないものばかりだから……、ねえ私お茶飲むけど、喉渇いてる?」
「これも?」
「え、どれ?」
「これ」
 冷蔵庫から取り出したばかりの、今朝作り置きした水出し紅茶をテーブルへ置く。飲み物でごまかして話を切り上げたかったのに、凪がこちらを見向きもしないので、仕方なく彼が指すものを確かめにいった。
 この一山は実家から持ってきた昔のものや、捨てるに捨てられないものばかりが積んであって、小さなもので雑然としている。何か変なものでも置いてあったっけ、と焦ったが、これ、と伸ばされた指の先にあったのは、予想外のものだった。
「ピアノ?」
 赤ん坊の頃から持っていて唯一捨てられないぬいぐるみでも、何かの懸賞で当たってしまって開けないままのコーヒーミルでも、粗品のティッシュボックスでもなく。凪が指しているのは、それらすべての小物の台と化している、蓋を閉めたピアノだった。
 セピアの髪を揺らして、うん、と頷く。凪の手がそうっと、蓋に触れた。
「電子ピアノじゃないよね。はづきの?」
「ええ、まあ」
「これも、使ってないの?」
「今はもう……、っていうか、この家に来る前もあんまり使ってなかったけど」
 レースのカバーの隙間から、うっすらと埃を帯びた黒を確かめるようになぞって。凪は私の、私さえしばらくまともに見ていなかったピアノを、食い入るように見下ろしている。
 彼の言うとおり、電子ピアノやオルガンではない。ちゃんとした、アップライトピアノだ。一人暮らしのアパートには似つかわしくないくらい、古いけれど本物のピアノ。
 ちくりと、存在さえ忘れかけていたことに胸が痛みつつ、凪の隣に立ってぬいぐるみをどかした。
「昔、保育園の頃だったかな。ピアノを習い始めたときに、祖父母が買ってくれたの」
 積んでしまった小さな荷物をどけて、拭くものを探す。埃を舞い上げないようにそっとカバーをめくり、荷物の隅に隠れていたはたきで、蓋をなでた。
「練習嫌いで、結局あまり続かなかったのと……家がマンションだったから、母が気にして、ヘッドホンのできるキーボードでよかったのにって言って、あまり弾かせてもらえなかったんだけど。でもなんだか、手放すのは惜しい気がしちゃって」
「ふうん……」
「実家に置いておいたら、そのうち母が片づけたがるでしょうし、何となく持ってきちゃったの。勿体ないわよね。本当はもっと早く、誰かに譲ればよかったんだろうけど、私も子供の頃は明日こそ練習するっていって聞かなかったから」


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