第五楽章


 音楽が深く響くことを、この人たちは、当たり前に知っているのだ。
 未知の世界へ迷い込んだような、まったく新しい扉が開け放たれたような思いで、私は眠くなることも忘れてステージを見つめ続けていた。

『続いては、九番』
 拍手と、親族や先生からの花束を受け取って、柔らかなスカートをひるがえした女の子がステージを後にしていく。華やかで聴衆を惹きつける演奏の余韻に引っ張られ、その後ろ姿をぼうっと見送っていた私は、アナウンスが次へと促す頃になってようやく拍手を止めた。
『天川凪さん』
 響いた名前に、はっとプログラムを見下ろす。もう、凪の番まで進んできていたのか。
 客席は露骨に声を上げる人こそいなかったけれど、彼の名前を聞いた途端、それまでの華やいだ雰囲気が嘘のようにしんとなった。この子って、と潜めた声で問いかけた斜め前の人に、うん、と頷く人がいる。
 会場中の視線が食い入るように注がれる中、ステージに凪が現れた。
 銀色のフラッシュが光り、客席が大きく息を呑んだ気配がする。アナウンスが曲目を告げる間に、ゆっくりと歩み出た凪はピアノを一瞥すると、前に立って私たちのほうを向き、やんわりと微笑んで一礼した。
(――凪、)
 私は、隣の家族が小声で囁き合うのも耳に入らず、心の中で一声、凪の名前を呼んだ。
 椅子に座って、楽譜を広げる彼の髪は、ホールの明るい光に照らされて、私の部屋にいたときよりもずっときらきらと飴色に見える。口角を上げてもどこか生意気で、つんとした印象の消えない横顔は、その髪が落とす影の下で、うっすらと紅色が差して見えた。
 静寂に、ことんと楽譜を立てる音がして。
 凪は黒のベストに包まれた背中を伸ばすと、鍵盤に手を下ろし、演奏を始めた。
「え……?」
 客席のどこかから、戸惑いを含んだ声が零れる。
 それは一つではなく、二つ、三つ、十、とやがて広がっていき、客席全体を包んで、大きなざわめきに変わった。
 私もその中の一人で、手元のプログラムを広げ、改めて凪の名前を確認する。
 天川凪――演奏曲は、チャイコフスキーの「四季」より六月『舟歌』。
 予選を通過した状態からの参加者は原則、曲を変えてはならないとの決まりにより、夏のコンクールと同じものを弾くことになったのだと凪は言っていた。この『舟歌』はおそらく、コンクールに向けて練習したばかりだったからだろう。ドビュッシーかショパンの曲を好んでいた凪には珍しく、譜を覚えていて、私の家でも時折弾いてくれていた。
 だから私も、知っているはずの曲だ。
 穏やかだが哀愁があり、雪解けの水で満ちた春の湖畔ではなく、この世のどこか人知れない場所にある、雨の水でできた湖を思わせるような。そこを小さな、細い木の舟と櫂で、どこかへ漂っていくような。
 けれど今、凪の奏でている曲は、まるで違う。
 淡々とした旋律で始まり、少しずつ重ねる音を増していって、華やぎ、収縮し、また華やぎ、弾けながら昇って、天井で光に変わる。
「この曲、何?」
「さあ……? 聴いたことないな」
 まるで、青葉の隙間から降り注ぐ、夏の日差しのような。
 明るくて温かくて、優しすぎて胸が締めつけられるようなこの曲を、客席の中で知らないのは私一人ではなかった。
 辺りを見回せばみんな隣の人と顔を見合わせていて、眉を下げたり首を傾げたりと、分からないという表情をしている。ざわめく会場の前からも後ろからも、「これ何?」「誰の曲?」と囁き合う声が聞こえている。
 緊張で、曲を間違えたのだろうか?
 だが、焦りに駆られて目を凝らした私は、気づいた。凪がちゃんと、楽譜を見て、確かめながらその曲を弾いていることに。
 横顔が、楽しげに笑っている。緊張とも焦燥とも、まったくかけ離れた表情で、凪は演奏を続けた。途中、アナウンスが入る直前の、マイクを切り替える音がしたが、すぐに切られて何も放送はされなかった。
 客席は次第に、彼の奏でる光に包まれて、口を利くことを忘れていく。零れる煌めきを吸って吐いて、私たちはそれが何であるかも知らないまま、音楽に身の内を捧げ、彼の聴衆になる。
 眩しくて温かくて、耳が離せなかった。
 動揺に強張っていた両手はいつしか力が抜けて、プログラムが膝の上に広がり、今にも落ちそうになっていた。百合の匂いがする。抱きしめた花束を見下ろして、私は感嘆とも驚嘆ともつかないため息をこぼし、一人笑った。
 こんな演奏をできるなんて、ちっとも知らなかった。
 演奏は終わりが近づいているのか、私の耳にも難所と分かる複雑な旋律を刻み、客席を期待と緊張で高みへと押し上げた。明かりを消して、うろのように真っ暗なはずの天井に、太陽が輝いているような錯覚を覚える。
 私の瞼に浮かんだそれは、あの七月の、階段の上で、凪の背を見下ろしていた金色の太陽だった。真夏の輝きほど無敵ではなく、春の光ほど柔らかではない。直視するには眩しくて、けれど触れて、温かさを確かめたくなる、夏の初めの光。
(……なんて、眩しい)
 見えない力で突き動かされているように、奏者として一心にピアノを操る凪の背に、私は吹き上がる白い翼を見た。体よりも大きく、どこまでも飛躍する、光に溶けることのない真っ白な翼を。
 止まない銀のフラッシュからも、囁き声の枷からも、彼は大きく飛翔して、今、そんなものは届かない世界に自らを放り込もうとしている。嵐が小さくなっていく。凪を取り巻いて吹き荒れていた、灰色の風が、打ち払われる。
 頭上を照らしていた太陽が、跳ねるように止まった音をきっかけに弾けた。
 あとはまた、木漏れ日のような穏やかな旋律だった。ゆるやかに速度を落とし、ひとつまたひとつと重なり合っていた音が消え、ホールに呑まれて、見えなくなった。
 わっと、客席から拍手が響き渡る。
 鍵盤から凪の手が離れ、彼の目が確かに終わったことを視認するように楽譜へ持ち上げられ、尾を引いていた最後の音が消えるのをやっと、待ちわびていたように、会場から湧いた無数の拍手は盛大なものだった。凪はずっと、呼吸を忘れていたみたいに、肩で息をしていた。鍵盤を見下ろして笑い、客席に向かって立ち上がる。
 ステージの袖から、スーツを着た人が出てきた。凪に歩み寄って、二言三言、小声で会話を交わす。困ったような、焦ったような顔をするその人から、凪はマイクを奪い取った。
 そうして自ら、ステージの際に立って、私たちに深く頭を下げた。
「天川くん、今の演奏は……」
 最前列の審査員席から、戸坂に代わって、今回から審査委員長を務める三田という男が、マイクを通して質問を投げる。凪は三田に向き直ると、マイクのスイッチを入れて、遠くに座った人たちにも聞こえる声で、はっきりと言った。
「勝手な行動をしてすみません。プログラムを変更して、急遽、別の曲を弾かせていただきました」
「原則として曲は変えないようにと、事前に連絡したはずですが……今の曲は何ですか。我々も誰一人、聞き覚えのない曲です」
「はい。――僕が、自分で作りました」
 会場が一斉に、大きくざわめいた。
 マイク越しに三田の「な、」という声が聞こえて、咳払いと共にスイッチが切られる。審査員席にもざわめきが広がり、次にスイッチが入ったときにも、三田の声はまだ動揺で掠れていた。
「つまり君は今、自作の曲を演奏したと」
「はい」
「どうしてこのようなことをしたのか、理由を説明してもらえますか」
 客席の注目が、凪へと注がれた。テレビカメラを背負った男性が、そっと通路を下って、前へ向かっていく。
 私も唖然として、身動き一つできず、彼の答えを待つ群衆の一人になるしかできなかった。凪はマイクを構えると、会場をゆっくりと見渡し、口を開いた。


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