第五楽章


「私のほうは、何ともない。誰も来てないし、疑われたりもしてないわ。やっぱり、言わないでいてくれたのね? うちにいたこと。隠すの、大変だったんじゃないの?」
「別に、言いたくないって黙ってただけだから。何ともないならいいんだ、おれももう昨日、無事だったなら結構って言ってもらえたし」
「根競べじゃない、解放されたばっかり」
「まあね。頑張ったでしょ? 元気そうでよかった」
 表情が、見えないのに、今どんな顔をしているのか予想がつく。得意げに笑って、それからちょっと、首を傾げて、目を細めて。
 ニュースから消えたと思ったら、一人でそんな後始末をやっていたなんて、私からは手の出しようがなかったとは言え、なんだか凪一人を戦わせてしまった気分だ。出ていくときも、社会に対する処理の仕方も、凪は結局自分で決めて、私の手を借りずに実行してしまった。
 心を決めると、成すべきことに向かってまっすぐに進んでいけるその強さは、私が私とは違う種族の人間だと思う人たちの、独特の強さだ。才能ある人々でもなく、無個性な大衆でもなく、ギフトを持つ人たちの、独特の強さ。
 ピアノへの固執と同じ、ぶれない意思とこだわりを持って、凪はあの部屋を出た。
 もう、彼は私などより遥かに強くて、芯が通っている。嵐から身をひそめて、傷を隠すように、丸まって眠っていた少年はいないのだ。
 私を案じる凛とした声に、頼もしさと少しの淋しさを感じて微笑みながら、ふと、凪が置いていった手紙のことを思い出して、口を開いた。
「がんばる、ってそのことだったの?」
 あの、たった四文字と一言の、詳しいことは何も書いていない、オレンジのバラでおさえられた手紙。あれは、帰るべきところに帰ることを、その際、私に迷惑がかからないようにすることを、がんばる、という意味だったのだろうか。
 訊ねると凪はああと笑って、ベッドにでも寝転んだのか、ぼすんと枕かクッションに沈む音が聞こえた。
「違うよ、あれは」
「そうなの?」
「もちろん、親とか警察とか、はづきのことも入ってるけど。でも、そういう周りのことだけじゃなくて」
「……うん」
「約束したじゃん? ちゃんと考える、って。一応、今のおれなりに、どうしたいのか決めたんだ。ていうか、本題はその話で、電話した」
 どきりとして、思わず携帯を取り落としそうになった。つまりそれは、凪が今後、ピアノをどうするかという話だ。
 そんな話を電話で聞くのは、と止めそうになったが、私としてもあれから凪が何を考えて、どう決断を下そうとしているのか、知りたい気持ちもあった。
 でも、凪が口にした言葉は、ピアノを辞めるでも続けるでもなく。
「はづき、九月の一週目の土曜日、空けられる?」
「え、来月の? うん、平気……ていうか、特に予定はないけど」
「その日、朝ヶ丘文化ホールで、この間のコンクールのやり直しがあるんだ」
「音ノ羽の?」
 思わず聞き返した私に、凪はそうだと言って教えてくれた。
 コンクールを引き継いだオーケストラが、今夏のコンクールに関しては、改めて参加者を募り再開催する方向で決定したこと。今夏の本選参加者には、予選を受けずに参加できる権利が与えられ、すでに過半数が参加を申し入れしていること。
 凪も参加者の一人であること。
 それはつまり、と柱の陰で高鳴る胸をおさえた私に、凪は落ち着いて、静かな声で言った。
「はづきに、来てほしいんだ。招待状送っておくから、来てくれない?」
「行く、絶対行くから送って」
「そんな念押さなくても、おれから頼んだんだからちゃんとやるって」
 笑われても、子供みたいに扱われても、今はちっとも気にならない。凪がまた、コンクールに出ようとしている。そのことがまるで、自分のことのように嬉しかった。
「本当ね? 忘れないでよ? 住所は――」
「うわ、今? 待ってよはづき、メールで送って」
 ばさっと、電話のむこうで跳ね起きた音がする。
 私は笑って、ラグの上で寝転んだあと、よく頭の後ろを跳ねさせていた凪の姿を思い出して、了承した。


 音ノ羽コンクール当日は、晴れ渡る青空の眩しい土曜日だった。九月と言ってもまだ夏の匂いばかりが強くて、朝ヶ丘文化ホールの前は蝉が騒ぎ、門柱が照り返し、木々の間に見える入道雲はソフトクリームのように渦を巻いている。
 午前に十歳以下の子供たちの部を終えて、午後からが本格的な、今年度のピアニストを決めるジュニアコンクールだ。出場者はもう中に控えているのか、ロビーにはそれらしい年頃の子はおらず、腕時計を気にする母親やお洒落な帽子を被った老婦人などが目立つ。
 私は手持ちの中で一番フォーマルに近いワンピースを着て、水色の紙に包まれた花束を持ち、浮いていないだろうかと辺りを見回しながら、会場へ入っていった。受付を発見して、そこに座ったスタッフに微笑みかけられ、もたつきながらも招待状を出す。
「ごゆっくりどうぞ」
 名前を確認し、手元の名簿と照らし合わせたあと、招待状はプログラムと一緒に返されてきた。ホールはもう入場を開始しているようだ。受付でもらった小さなバッジのようなものを肩につけていると、ドアの傍に立っていたお兄さんが案内してくれ、前方の、中心に近い椅子に座らせられた。
 どうやら招待客は、この辺りに席を決められているらしい。続々とやってくる参加者の家族らしき人々を眺めながら、私は両隣のどちらかに凪の家族がくるのではないかと思ったが、やってきたのはどちらともニュースで見た母親とは別の顔の女性で、連れの家族と会話に挙げる名前も、凪のものではなかった。
「写真を一枚、失礼します」
 テレビ局の取材らしき人が来て、招待席にカメラを向ける。私はそれとなく視線を落として、顔が写らないようにした。
 凪の家族を探しているのだろうか。彼らはしきりにプログラムを見て、演奏順から大体の席を数え、私のいる辺りを念入りに眺めていたが、やがて諦めたように離れていった。
 テレビの取材が入ることは受付で聞いていたので、周りもそれほど驚いていない。あれだけのニュースになったコンクールの、再開催だ。取材を許すのは一局に絞ったという話だけでも、新しい主催は十分、ことを穏やかに終えるように検討してくれたほうだろう。
 会場の明かりが暗くなる。ブザーが鳴り渡り、お喋りに興じていた客席が少しずつ、静かになる。
『皆さま、お待たせいたしました。まもなく第三十六回、音ノ羽ジュニア・ピアノコンクールを開催いたします』
 放送が流れると、客席はいよいよしんとなり、演奏中の諸注意を告げる事務的なアナウンスだけが響き渡った。携帯の音が鳴らないことを確認し、花束を膝に置いて、プログラムを広げる。
 年齢、経歴に関係なく、二十名余りの参加者の名前が、くじで選ばれた通りに並んでいた。凪が出るのは真ん中より少し前、数人の女の子が続いた後の、九番だ。知らない曲がたくさんある。
 ぼうっと見ていると、最初の演奏者が壇上に現れた。

 明るい、笑い転げるような音。
 毀れもののように繊細な音。
 澄んだ、唱歌のような音。
 重く威厳に満ちた、軍人の行進のような音。
 ひとつの楽器、まして代わる代わる使われる、壇上の同じグランドピアノから、これほど変化に富んだ音が出てくることなど、想像したこともなかった。囀るように、嘶くように、奏者の指は楽曲の性格と彼ら自身の感性を落とし込み、鍵盤を自らの色で塗りかえて、演奏を導いていく。
 曲が終わるまでの間、彼らはホールの王様だ。
 聴衆は奏者の作る空気の中で息を吸って、息を吐いて、体の奥の、手で触れることもかなわない場所まで、彼らの音に染められている。興亡のように、喜びが、悲しみが、哀切が、愛が、体を通り抜けていく。
 私は横目で、近くにいる人たちを眺めた。誰も驚いている様子はなく、穏やかに、自分の家族の順番を待って座っている。


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