第四楽章


「最後だもの、凪の好きな曲にしたらいいと思う」
 リクエストはしないことを宣言して、私は座って、ただ彼のピアノとの別れを見届ける仕事に専念することにした。凪は分かった、と小さく言って、深呼吸をする。
 すいと指が白鍵の一つを押さえ、連鎖するように、聴きなれた旋律を零し始めた。ああこれは、と夢うつつに聴いた記憶を重ねるように、目を伏せる。
 ドビュッシーの『夢』――あるいは、『夢想』。
 柔らかな服と肌のあわいに水が満ちてくるような気がして、閉じた瞼の裏には、私の捧げたデルフィニウムの青が滲んだ。凪との暮らしは、始まりもこの曲だった。私にとっては、終わりの曲として、これ以上ふさわしいものはない。
 だが、そう思ったとき、素人の耳にもはっきりと分かるくらい、音が崩れた。目を開けると、凪も小さく顔を顰めたところだった。演奏を続けるが、今度はうっかり、私のピアノの音が狂った鍵盤を叩き、あっという表情になる。すぐに対応し、次の和音では別の音を当てはめて変えた。でも、小指が鍵盤から外れて、凪らしくないミスを重ねた。
 焦燥に駆られていた顔が、だんだんと目を伏せていく。そうして凪はとうとう、目を瞑ってしまった。その睫毛の先からぽたりと、錯覚でも何でもない、本当の水が落ちたので、私も思わず息を呑んだ。
 演奏が何度目とも数えきれないミスを境に止まったのは、ちょうど同時だった。
「だめだ……」
「凪?」
「最後だと思ったら、手が」
 動かなくて、という意味かと思ったが、自嘲気味に差し出された手を取って、初めて気づいた。凪の手は、雪の下で凍えたように白く、血の気が引いて小刻みに震えていた。
「凪っ、あのね」
「ごめん、はづき」
 私はさすがに、自分のやったことが間違っていたと察して、本当のことを打ち明けようとした。最後にさせるつもりなんて、初めからなかったことを。私は凪に、自分の気持ちに気づいてほしくて、最後だと思ってピアノと向き合ってみてほしかっただけだということを。
 でも、凪が先に謝ってしまって、驚いた私は彼に言葉を譲ってしまった。
「やっぱり、最後とか簡単には決められない。まして、こんなガタガタの演奏が最後とかさ……そんなわけにはいかないよ」
「凪……」
「でも、前と同じ気持ちにも、もう戻れない。好きで、辞めたくないけど、おれの中で、もうおれはピアニストじゃないんだ」
 震える手で私の手を握って、泣いているのは自分のくせに、諭すみたいに言うものだから、私は何も言えなくなる。
 いっそうるさい、おれのことはおれが決めるとでも、子供らしく怒ってくれたら。そうしたら私はお姉さんぶって、そうよその通りよ、自由にしたらいいのよ、と力強く励ますことだってできたのに。
 凪は不安定で、子供で、世間知らずで、ひどく儚い。そのくせこんなときだけ、泣いてもいない私の悲しみを分かっているみたいな顔で笑う。
 ふわりと、椅子から落ちてきたみたいに、ラグに膝をついて、凪は私の首に腕を回した。抱きついて、痛いほど力をこめられて、驚きで反応ができずにいる私の肩口で、ぽつりと呟く。
「……でも、このまま終わりっていうのも、絶対に嫌だな」
 苦しい、と背中を叩こうとしたとき、凪は両腕を離した。なんだかすぐには声が出なくて、詰めていた息をどっと吐き出す。凪は立ち上がって、ピアノを片づけた。無造作に、じゃれるみたいに掴んで、端まで丁寧にカバーをかけた。
「ありがと、はづき」
「え、何が……」
「一晩、ちゃんと考えてみるよ。これ、もらっていい?」
 床に転がった花束を拾いあげ、面白そうに百合を覗き込む。
 私はうん、と頷いて、しばらくぼうっと花束で遊ぶ凪を見ていた。結局、この日、私たちはもう、それ以上の難しい話はしなかった。


 目覚まし時計の電子音と、携帯から流れる音楽アラームの二つで、私の平日の朝は始まる。特に月曜は、油断するとすぐ二度寝しそうになってしまって厄介だ。
 一度目の目覚まし時計は相変わらず、意識のないまま止めてしまって、結局ぎりぎりに設定したほうの携帯のアラームで目を覚ました。慌ただしく髪をまとめ、パジャマを部屋着に着替える間もなく、仕方なしとリビングへ飛び込んでいく。
 電気はついていなかったが、窓からの光で室内は明るかった。おはよう、と言ってしまってから、凪がいないことに気づいて洗面所を覗く。
「凪?」
 遠慮がちに声をかけたが、返事がない。思い切って開けてみると、ここも電気は消えていて、誰もいなかった。え、と声が漏れる。ざわつく胸をおさえて、リビングへ戻る。
「な……」
 もう一度、誰もいない部屋を見渡してその名を呼びそうになったとき、真っ白なテーブルの上にぽつりと置かれたオレンジに気がついた。
 それは昨日、私が凪に贈った花束の中の、一輪のバラだった。太陽のように明るくて、今が一番咲きかけで美しい。
 その下に、一枚の紙が残されている。

『がんばる
 いってきます』

 上の「がんばる」に比べて、後から思い立って書き足したように、小さな文字で走り書きされた「いってきます」。
 心臓の音がいくつ脈打つ間、呆然とそれを眺めていたか分からない。
 我に返った私は、充電器から携帯を抜いて、真っ白な頭でインターネットを開いた。天気、占い、電車の遅延情報、とお決まりの情報に続いて、今朝のニュースが一覧になっている。

『行方不明の天川凪くん・発見』

 現実味のない文字列をなぞるように開くと、見出しに続いて、詳細が記されていた。
 本日未明、朝ヶ丘警察署に自ら赴き、天川凪と名乗ったこと。その後、家族との面会により本人の確認がされ、現在は署で事情を聴かれていること。
 怪我はなく精神的にも良好、とまとめられた記事の、最後に掲載された写真を見て、私はようやく、それが私の知る天川凪であることを確信できた。
 彼はここでの二週間など存在しなかったかのように、白のシャツに黒のパンツ姿で、ホールから消えたときと同じ格好をしている。
 その胸に、一輪のオレンジのバラがささっていた。


- 12 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -