第四楽章


 でも、才能の有無、それ自体には肯定派である。
 優れた人たちほど自分を「才能はない」と言い、成功の秘訣を「努力」、あるいはもっと謙虚に「家族の支え」なんて言ったりするが、私から見ればそれは、生まれ持った人の台詞だ。努力が結果に結びつくのも、周りが未来を信じて支えてくれるのも、結局のところ、その人の中に才能が見え隠れしているからではないかと思う。種のないところに水をまいても芽は出ない。ただ「乾いている」という理由で、土の塊に水をやる人もいない。
 努力、それ自体を才能と呼ぶ人もいる。否定はしないが、私は才能というより「ギフト」だと思う。才能ほど確固たるものではなく、捨てようと思えば簡単に手放せて、人生の役に立つかは分からないもの。けれど才能と同じく、与えられている人と、そうでない人がいる。
 努力を続けるということは、熱中することだ。その根底にある感情は、こだわりではないかと思う。星の数ほどあるものの中から、何か一つに目をつけ、愛し、傾倒し、のめり込むという一つの固執。その固執の結果が、努力だ。
 努力ができる人というのは、何かを格別に愛する能力というギフトを持って生まれた人種である。
 そして、そのギフトを開けてしまうことが、人生を豊かにするときもあれば、苦しめるときもある。愛することと、思い通りにできることは別物だからだ。彼らは与えられたギフトを愛するけれど、ギフトを扱いきれるとは限らない。それを意のままに扱う能力は、「才能」だ。両方を持ち合わせる人は、そう簡単に生まれてはこない。
 自分の愛するものが自分を愛してくれないと知ったとき、手放そうとするのは、悪いことではないだろう。誰だって見返りのない愛は苦しい。楽になりたいと思うことを、他人が止める権利はない。

(――でも、分かっているけど)

 ほろほろと零れるような演奏が終わったとき、私の心は固まっていた。鍵盤の上から指が全部離れていくのを見送って、静かな拍手を贈る。
 立ち上がり、いきなり背中を向けてリビングを出ていった私を、凪は困った声で「はづき?」と呼びとめた。私は、浴室のドアを開けて、バスタブに隠してあった花束を拾い上げた。目を丸くしている凪の胸に、甘い香りのそれを押しつける。
「なに、これ」
「あげる。さっき、買い物の帰りに作ってもらってきたの」
「なんで、そんな……」
「称賛を形にしようと思ったのよ。私、勉強したけどやっぱりクラシックとか無知だし、言葉じゃすごいすごいって言うくらいしかできないから」
 真っ白な百合と、オレンジのバラ、差し色のように二色をまとめる青のデルフィニウム。使いたい色を三つ、たどたどしく挙げた私に、花屋の店員さんがおすすめを選んで作ってくれた。
 翼のように大きくて眩しい白、太陽のように明るいオレンジ。それと、彼の奏でる音色のような、冷たくて、けれど氷ほど透明になりきれない、芯に生命の温かさを残している青。
 出会いのときから今日までの思い出を辿って、私が凪に似合うと思ったのは、この三色だった。持ち帰ってくるとき、あのホールの前を通った。階段の上に立っていた凪の、今にも落下する寸前みたいな姿を、私は瞼の裏にくっきりと覚えている。
 楽になれるのなら、なったほうがいいのかもしれない。
 愛するもの、特別に思うものなんてなくても、どうとだって生きてはいける。私のように。
 だけど。
「貴方は、ピアノを弾くべきだわ」
 覚悟を決めて、私は凪に、一思いに告げた。花束を抱えて、少年は残酷な生き物を見る目で私を見下ろす。泣きたいような、どうしてというような、裏切られたような顔で。凪は何かを言おうと口を開きかけて、何も言えず、白い歯を噛みしめた。
「好きなんでしょう、何よりも。天才だからとか、そうじゃないからとか、関係なく。ただ、ピアノを弾いているのが大好きなんじゃないの?」
 問いかけに、答える声はない。
 ずっと才能を信じて、ピアノに愛されていると思ってきた凪にとって、それがまやかしだったことは、どんなに大きなショックと屈辱だろう。今さらピアノなんて触りたくもないと、そう思うのなら、辞めてしまって当然だ。
 だけど彼は、ピアノを辞められないでいる。もう才能に縛られているわけでもない。ここには彼にまやかしを吹き込む、母親もいない。だけど凪は自らピアノに向かい、ピアノとの繋がりを断ち切ることができないでいる。
 それはただの、純粋な気持ちではないだろうか。
 誰に指示されなくても、求められなくても。苦しめられても、まだ手放せない。ピアノに対する一方的で、純粋な、凪の固執だ。
「貴方は、ピアノが好きなのよ。手放したら、生きていけないのかもね」
「……なんで」
 大げさぶって、笑って言うと、凪も呆れたように笑って、ちょっとだけ言葉を返してくれた。だって、と首を傾げて、私は先刻の夕食を思い出しながら告げる。
「私がどれだけ頑張っても、ピアノを弾いてるときと同じ顔をさせられないの」
 凪はぱちりと、瞬きをした。
 与えられたギフトを、彼は開けて、才能だと言い聞かされ、与えられるままに食してきてしまった。今さら違うと言われたところで、嫌いになることなどできるはずもないのだ。
 だったら、愛して、受け入れて、突き詰めて。満足のできるところまで、愛し尽くして生きていくしかないように思う。
「どんな顔してんの? おれ」
「……笑ってる。ちょっと、泣きそうに」
 あんな、愛しくてしかたない、みたいな目をして見つめるものを、手放そうと抗うだけ無駄な気がするのだ。
 その目を見るたび、私は凪を、天才ピアニストではなかったのかもしれないけれど、自分とは違うものを持っている種族の人間なのだと感じる。私はこの歳になっても、あんな顔で何かに向き合ったことなど、一度もない。
 凪は私と同じように生きても、同じにはなれない。ここでピアノを辞めたとして、きっと、ただでは楽になれない。そういう人なのだ。
「はづきの言うとおり、ピアノは好きだよ。ここにきて、ピアノがあるのを見た瞬間、バカみたいに嬉しくなったときから気づいてる。だけど……」
 花束を抱きしめて、凪はその先を躊躇うように視線を逸らした。
「だめだろ、辞めなきゃ」
「どうして?」
「だって続けて、どうする? どんな顔で続ければいい? 母さんが買った優勝以外、なんの実績もない。あんな事件が明るみに出て、嘘吐き呼ばわりされるのが分かっていながら、弾いてどうするっていうわけ? コンクールに出る? 嘘吐きの、凡人でしたって聴かせにいくようなもんじゃん。趣味にするとか、それこそ未練がましくて、色々思い出して引きずりそうだし」
「……だったら!」
 叫んだ私に、凪はびくりと振り返った。
 紅茶色の目とまっすぐに目を合わせ、私は今こそ、一思いにこの人の心臓を掴まなければいけないんだと、そう自分の背中を押した。
 こんなふうにぶつかって、真っ向から人と関わるのなんて、久しぶりどころか生まれて初めてではなかろうか。特別なものなんてない、何もできないと思っていたけれど、私にもまだ、変わっていく余地は残されていたのだ。
「次で、本当の最後にするって約束しようよ」
「え……?」
「ピアノ、辞めるんでしょ? 凪が決意するの、手伝ってあげる。最後の一曲、弾いて? 辞めるなら辞めるで、きっぱりするべきだわ」
 練習も、本番もない。ピアノを触っている限り、凪はピアノを「辞めた」とは言えない。趣味にもせずに辞めたいというのなら、きちんと手を引くべきだ。でないと気持ちが残って、次に向かって行けない。
 ちょうど今なら、幕引きに丁度いい花束もある。一度渡した花を凪の腕から奪い取って、私はほら、と当たり前のような顔をして、凪の演奏を待った。
 もちろん、最後の演奏だ。唖然として、しばらく言葉を探していた凪が、やがて鍵盤の上に両手を下ろす。


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