第三楽章


「う……っ」
 ドアのむこうで、母が嗚咽を漏らしたのが聞こえた。凪ははっとして、一歩、ドアを離れ――気がついたら、歩いてきた廊下を一心不乱に走り抜けていた。
 わき目も振らずに走って、走って、考えていたのは順位のことでも、裕福な家のことでもなければ、母のことでも戸坂のことでもない。
(――嘘だ)
 自分の、こと。ただひたすらに、それしか考えられなかった。
(嘘だ、嘘だうそだ……!)
 ひゅうっと、目の奥に眩しい光が飛び込んできて息を呑む。スポットライトに良く似たそれは、来客用の通路に吊るされたシャンデリアの、蝋燭を模した光だった。偽物の金色、それを支える銀色の腕。ああそうだ、嘘だ、と凪は思った。
 この身に付加されてきた栄光は、全部、偽物だったのだ。
 通路をめちゃくちゃに走り、ひとけのない道を選んで曲がりくねって、白い廊下を息もできなくなるくらいに走って。何もかもを知っているこの建物が、今にも大きな口をあけて自分を飲み込むのではないかというような気がして、精神が咀嚼される音が聞こえた気がして、声を上げて逃げ出した。
 そうして明るいほうに向かって、とにかく明るいほうに向かって。
 気がついたら、ホールの裏口を飛び出して、階段の上に立っていた。

「――母さんは、おれにピアニストの夢を託してたんだ」
 ぽつりと、凪が小さな嘆息を挟んで言った。私は彼の目が、あの夏の日差しの底から帰ってきたのを感じて、自分も今このときへと戻って、ゆっくりと瞬きをした。
 静寂に、ポットのお湯が沸く音が聞こえている。日差しはなく、蒸し暑くて湿っぽい。白いテーブルに買い物袋ののった、質素な私の部屋。
「ピアニストの、夢?」
「母さんは、昔ピアニストになりたかった人だから。でも、両親の反対を押し切れなくて諦めた。結婚して、家庭を持てって。ピアノなんて音大まで行かせてやったんだから、もう十分だろうって言われたらしい」
「だから、凪にその夢を継がせようっていうの? 自分の代わりに、ピアニストになれって?」
「うん、エゴだって思うだろ? でもさ、おれ、分かんないんだよね」
 え、と首を傾げた私に、凪は真似するみたいに、わざとらしく首を傾げて笑う。
「物心ついたときから、天才だからピアノの道に進むんだって思ってた。おれはピアニストになるために生まれてきたんだから、間違いとか正解とかなくて、大人になったら自然と、ピアニストになるものだって信じてきたんだ」
「凪……」
「だから、母さんが夢を背負わせてくるとか? 気にしたこともなかった。周りは色々言ってたけど、おれはどうせピアニストになるんだから、結果的に母さんの夢も叶うのかもしれないけど、別にそれが道を決めてるわけじゃないと思ってたわけ」
「……ええ……」
「でもさあ、はづき?」
 ゆるりと、凪は倒れる前の樹のように身を乗り出した。私の頭に、頭を近づけて、私の目の中にいる自分と話しているみたいに、冷ややかな声で言った。
「天才なんかじゃなかったんだよ、おれ。全部、母さんの作りものだった」
 ぞくりと、私の目の中の凪が殺されたような気がして、心臓が凍った。凪の声には、ゆるやかに上がった唇には、私がコンクールの話を持ち出したときの視線と同じ、透明なナイフの鋭さが宿っていた。
 初出場にして初優勝、創られた天才、彼の母の夢を詰めたしなやかな骨と皮。
 凪は自分の言葉で、自分を刺そうとしているみたいだった。私は恐ろしくなって、凪のシャツを掴んで、首を横に振った。
「なに、はづき?」
 夕飯なに、と訊くときと、ほとんど変わらない口調で。あっけらかんと穏やかに、凪は私を見つめ返す。
 対する私は、すぐには言葉を見つけられなくて、乾いた口を何度も閉じたり開いたりした。思考と喉を繋ぐパイプが断ち切られてしまったように、溢れる感情を声にすることができなくて、焦りが手を震わせる。
 何か、言わなくては。
「私……、私は、さ」
 何も分からない、何も知らない、凪にとっては道端にたまたま落ちていた空き箱のような、ただそこにあったから飛び込んだ相手かもしれないが。
「私は、凪のピアノ、大好きだよ」
 それでも、今ここには、私しかいないのだ。
 私が口を閉ざしてしまったら、凪は笑ってこの話をおしまいにして、静かに色々なものを終えてしまうだろう。私は私の目の中で、凪に自分を殺させてはいけないのだ。それは凪の魂だから、守って、抜け殻になりたがっていても、目の前の体に返さなくてはならない。
 それは、私が大人だから、凪が子供だからじゃない。
 凪が傷ついている人で、今は私が、彼の一番近くにいる人だからだ。
「泣かないでよ、重くなるじゃん」
 堪えようと思ったのに、どうしても一筋、込み上げて堪えきれなかった涙を拭って、凪は苦笑した。冷たくて温かい、節くれ立って皮の厚い指だった。
「ありがと、はづきがそう言ってくれたから、楽しかったよ」
「凪……?」
「でも、もういいんだ」
 反対の手で、彼は叩きつけるように、鍵盤を押さえようとして。
 ゆっくり、静かに、ドの音を一つだけ鳴らした。


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