1:ニフタの王女


 その日から、王女は導師を初めとする、ごく限られた教育係によって育てられた。彼らの教えの目的はただ一つ。どんなときも心を落ち着けて、冷静に、気持ちを昂らせずにいられるようになること。
 物心つく前から始められたその教育によって、王女は大人しく、従順で口数の少ない少女に成長した。高揚しがちな外での遊びを避けて育った身体は華奢で、人形のように動くことのない眉の下には、一対の憂いを帯びたラピスラズリの瞳が埋まっている。
 髪と同じ、白銀の睫毛がそれを縁取り、かすかに煌めいていた。

 名を、ルエル・トーラという。


「ルエル?」
 コンコン、とドアが小刻みにノックされて、青年の声が名前を呼んだ。眼前に垂れ下がるヴェールの金糸をぼんやりと見つめていたルエルが、顔を上げる。
「まあ、ゾイロス様ですわ」
「お支度も終わって、ちょうど良かったですね。きっとお迎えにいらしたんでしょう」
 メイドが手早く散らかった服を片づけて、ドアへ向かった。二言三言、話してから恭しくドアを開ける。
「ルエル!」
「次兄さま」
 途端、待ちくたびれたといった様子で入ってきたのは、ルエルの二番目の兄ゾイロスだ。部屋の中央にいるルエルを見て、元から丸い目を更に丸くする。
「わが妹ながら、見違えたものだ。似合っているじゃないか」
 くしゃりと笑って、彼はいつもの癖でルエルの頭に手を乗せようとし、ティアラに気づいて腕を下ろした。メイドがひそかに、ほっと息をつく。せっかく万全に整えた髪を崩されては、また支度のやり直しだ。
「父上たちが広間で待っているぞ。迎えに来た」
 メイドが静かにドアを開ける。ゾイロスの言葉に、ルエルは小さくはいと返事をした。

「緊張しているか?」
 こつ、こつ、と長い廊下に、二対の足音が響き渡る。広間へ向かう階段を下りて、ルエルの部屋から遠ざかると、ずっと黙って隣を歩いていたゾイロスが訊ねた。
「……はい、多分」
 居た堪れない心地がして、ルエルはわずかに下を向いた。廊下に出たときから、窓を伝う雨の滴には気がついている。いつから降っていたのか、決して弱いとは言えない雨だ。部屋でドレスを着替えたときには、まだ曇り空だったと思うのだが。
「申し訳ありません。抑えが利かせきれなくて……」
 少し目を離した隙に降り出した雨の音を聴きながら、ルエルは謝った。感情の抑制は、いつもの通りにしているつもりだ。でも今日は、思うように雨を止めることができない。
 ドレスに隠れた爪先を、一歩また一歩と動かして進む。経験のない緊張感に、胸がざわめいていた。近頃は以前より力が強くなってきていることもあり、精いっぱい冷静にと念じてみても、この雨はしばらく止みそうにない。手探りで、何とか心を静めようとする。
 ゾイロスはそんなルエルを見て、首を横に振った。
「いいんだ、謝ることじゃない。俺が訊いたのは、ただ緊張しているのかどうか。それだけさ」
「次兄さま……」
「なんて、しているに決まっているよな。結婚の話なんて、そうそう滅多にあるものじゃないし」
 俺もまさか、妹に先を越されるとは思ってもいなかったよ。硬くなりかけた二人の間をほぐすように笑って、ゾイロスは言う。私もだ、という言葉を、ルエルは喉の奥に呑み込んだ。
 感情の起伏が雨を呼ぶ、雨呼びの王女が転じて、いつからか雨憑姫(あまつきひめ)とさえ呼ばれるようになったこの身。よもやそれを引き受けたいと願い出る人がいるとは、思いもよらなかった。
「心配しなくても、この結婚がうまくいけば、お前にとっても楽になるだろう。悪い話じゃない。相手方はお前の体質を切望して、使いを寄越したというじゃないか。向こうにいけば、今のように無理に、感情を抑えて暮らす必要もなくなる」
 な、と兄が声を落としたので、ルエルは顔を上げた。広間の扉がすぐ近くに迫っていた。近衛兵が姿勢を正す。差し出された手を取り、ルエルは兄を見上げた。
 母譲りのブロンズの髪、父譲りの碧緑の瞳。
 自分とは似ても似つかないが、血の繋がった兄だ。歳の離れた長兄はさらに似ていない。彼は父の、まるで生き写しである。
 近衛兵が扉を開けた。まっすぐに敷かれた絨毯の先に、父である国王と母、長兄ポロスが並んで座っている。ゾイロスが先に立って踏み入り、その列に加わった。
 背後で扉が閉められる。ルエルはヴェールを纏った頭を静かに垂れ、出立の挨拶をするため、家族の前に足を進めた。


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