8:月明かりの宴
「気分は悪くないか?」
傍に身を屈めて、ジャクラが問う。
「はい。少し、くらくらしますが」
「それは、しばらくすれば抜ける。……よりによって、強い酒を飲んだな」
「そう、なのですか」
「あの白葡萄酒は、俺も滅多に飲まないんだ。一杯で酔うから」
髪留めを外してくれた手が、投げ出されたままのルエルの手を握った。視界の隅にぼんやりと、脱がされた靴があるのを見る。石榴酒さえも手を出したことがなかったくせに、ずいぶんなものを飲んだらしいということだけは何となく分かった。それにしても倒れるとは、自分のことながら情けない。
「すみません、ご迷惑を」
「いい。謝るなら、心配を、だ」
「……はい」
とん、とん、と宥めるように、指の先で手の甲を叩かれる。心拍に近いそのリズムと、久しぶりにきくジャクラのゆっくりとした口調が、頭の芯に残っている仄かな眠気を誘った。
彼は呂律の回らないルエルの、話すスピードに合わせているのだ。最近はシュルークの訛りにも慣れて、普通に話せるようになっていたので懐かしい。
「あの、ジャクラ」
「ん?」
穏やかな声は、揺れる頭の中で、一緒になってくらくらと揺れていた意識を落ちつけてくれる。徐々にものが考えられるようになってきて、ルエルは倒れる直前に見た人の顔を思い出し、申し訳なさに目を伏せた。
「ザキル大臣、に」
単調なリズムが、ふと狂う。ジャクラの手にぴくりと力が入ったのを感じて、ルエルは瞼を開けた。
「……そうだな。いくら暗かったとはいえ、手元のグラスを間違えるほどだ」
「はい……?」
「ザキルとの話は、そんなに楽しかったか?」
唇に弧を描いて、訊ねられたことを理解するまでに数秒の間を要した。あのとき、ザキルと話していたのは雨のことだ。ザキルが慌てていたと聞いたので、彼にも自分が大丈夫だと伝えてほしいと頼もうと思ったのだが。思いがけない問いかけに、話の進路が変わってしまう。
手元を見る目がうっかりしたのは、楽しかったからというより、正直に言うには気恥ずかしい話をごまかすことに必死だったからだ。だが、それをジャクラ本人に伝えるのは尚更恥ずかしい。ルエルは答える言葉が思いつかず、視線を逸らそうとした。
その頬に、ひやりとした手のひらが当てられる。
「ジャクラ?」
戸惑いと、どうしたのかと訊ねたい気持ちとが綯い交ぜになって、呼びかけた声は弱々しく掠れていた。いつもは体温が高く思える手なのに、今は冷たく感じて心地いい。
ひりつく喉の奥で、呼吸を飲み込む。ジャクラが音もなく身を屈め、ルエルは彼の琥珀色の目の中に、自分の藍色の双眸が潜んでいるのを見つけた。
「逃げないのか? いつもみたいに」
くらくらと、頭の芯が揺れ続けている。与えられる手のひらに身を寄せて、このまま凭れていたい。逃げないのかと訊かれて初めて、いつもだったらとっくに飛びのいているだろうに、私は何を考えているのだろうとルエルは困惑した。
けれどその答えは、最初から胸の奥にあった。
「逃げたい、のは……いえ、恥ずかしいのは、いつもと同じなのですが」
「……」
「いつも、こういうときに……私が逃げようとするから。あなたが手を離してくれて、それで終わりになるでしょう。逃げなかったら、どうなるのかな、って……」
心の底にあった、地下水のような疑問。素知らぬふりをしていても、ジャクラと触れ合うたび、心のどこかでずっと流れ続けていた疑問が、今は表に出てきてしまう。
――私が終わりの合図をしなかったら、あなたは一体どうするのだろう。
――拒まなければこのまま、いつものように、私を抱きしめる?
まるで何かが緩んでしまったみたいだ。熱に浮かされたように、ジャクラに、そして自分自身に語りかける自分の声を、離れた場所から聞いている。
ルエルが静かに瞬きをするまで、ジャクラは何も言わなかった。彼はただ、ひどく驚いたように目を瞠っていて、やがてその目がはっとしたように動いたと思ったときには、盛大なため息が吐かれたのだった。
「……妙な冗談を、こんなときに言ってくれるな」
「え?」
「分かっていないなら、言っていい台詞と悪い台詞というものがあることだけ覚えておけ。この酔っ払いが」
言い捨てて、背中に当てていた枕が引き抜かれる。よろけたルエルをベッドに押し込んで、ジャクラは一瞬、笑ったように見えた。布団が口元まで引き上げられ、爪先から蒸されるような暑さに気を取られる。
瞬間、起き上がろうとしたルエルの額に、口づけが落とされた。
「これだけ話す元気があるなら、心配はなさそうだな」
「……っ」
「気分が悪くないのなら、今夜はもう眠ってしまえ。じきにサルマが水を持ってくる。それを飲んでからな。父上たちには俺から言っておこう」
ぽんぽん、と子供にするように、膨らんだ布団の上を叩いてジャクラは身を起こした。外にいる、と言って背中を向け、出て行く彼を呆然と見送る。
ランプの光が影に揺らめき、かすかなオレンジの香りが、閉まるドアの風にかき消された。
ルエルは布団の中で、数度、瞬きを繰り返した。騒ぐ心臓の上に手を当て、それからそっと、額に触れた。
「――――……っ」
収まりかけていた熱が、これでもかというほどに昇ってくる。
言葉も発せず寝返りを打って、視界からドアを追いやった。外にいる、と言った彼は、サルマが戻るまではそこにいるだろう。姿が見えるわけでもないのに、ドアのほうを見ていたらどうにかなってしまいそうで、背中を向けなくてはまともでいられそうにない。
酔いに押されて吹き出した熱は留まるところを知らず、ルエルは力の抜けた指でシーツをかき寄せて、冷たい水を待った。
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