8:月明かりの宴


 どうしたのですかと訊ねても、理由がないのはおかしいかと聞き返されて、返答に窮してしまう。ルエルにはただ、ジャクラが何を思って触れてくるのか分からないだけだ。もっと言えば、こんなことが一度や二度ではなく続いている。感情が不鮮明だった頃はまだしも、今となってはその度に、熱くなる頬や動揺を隠しきれない自分が悔しい。
 それなのに、呼び止められると素直に足を止めて、心臓が壊れそうになりながら同じことを繰り返す自分は、もっと分からない。
「姫?」
 空は口より雄弁だ。いつも正直に、雨を降らせる。
 だから今はまだ、雨が降るのは自分の力というより、ジャクラの存在によるところが大きい気がするのだ。ザキルに呼ばれて思考の海から引き揚げられながら、ルエルは曖昧に頷いて口を開いた。
「皇子のおかげです。私一人の成したことではありません」
「おお、これはこれは。本当に仲がよろしいようで」
 愛想笑いというのが役に立つのはこういう場面なのだなと、ルエルは思った。まさか色々と悩んでいるからといって、ザキルにこの実情を打ち明けるのも恥ずかしい。言葉を濁したせいで、余計に気恥ずかしい受け取り方をされたような気がしないでもないが、元より婚約者なのだから仲が良いのは悪いことではないと割り切った。
「そのご様子ですと、ルエル様とは今後も長いお付き合いができそうで――」
「はあ……」
 慣れない会話に、顔が熱くなる。肯定とも否定ともつかない適当な返事を返しながら、何か冷ますものを飲みたくて、ルエルは近くにあったグラスに手を伸ばした。
 無色透明の水面から、傾ける瞬間、ふと強い香りが漂って驚く。
「姫、そのグラスは……っ」
 向かいに立っていた外交大臣のジニが、大人しい彼らしからぬ慌てた声を上げたが、手遅れだった。ごくりと喉を通った水の、焼けつくような感触。頭が揺れて、テーブルの上にグラスが転がった。
「姫!」
 冷やしたつもりの喉が、やけに熱い。ザキルが料理を放り出して、傾いた体を支えてくれる。
 何か迷惑をかけたことは分かって、ごめんなさいと謝ろうとしたのを最後に、ルエルの視界は大きく反転して真っ暗になった。

 体がふわふわして、何だか温かい。
 深い暗闇から浮上するようにゆっくりと目を覚まして、ルエルは二度三度、薄い瞬きをした。視界は薄暗く、ここがどこなのか、すぐには判然としない。
「ん……」
 頭がひどくぼんやりとしていた。息を吐くと、喉の奥が熱いことに困惑する。涼しい空気を求めて深呼吸をすると、オレンジの香りがした。頭が少しだけ、すっきりと冴えていく香りだ。もう少し、と腕を伸ばして、その温もりに鼻をすり寄せる。
「起きたか」
「え……?」
 ふいに真上から声が聞こえて、ルエルは顔を上げた。見下ろす琥珀色の目が、薄暗闇に慣れてきた視界に映る。
 ジャクラ、と呟くと、彼は苦笑して「おはよう」と答えた。だんだんと、意識が目を覚ましてくる。自分が眠っていたことに気づき、恐る恐る今の状況を見て――
「……っ!?」
「こら、動くな。落としたらどうする」
 ルエルは声にならない悲鳴を上げて、握りしめていたジャクラの服から手を離した。ついでに下を見て確かめようとした可能性は、彼の台詞によって、事実と断定される。背中と膝の裏に回された腕を、ようやくはっきりと認識した。
 ふわふわもしているし、温かいはずだ。自分はジャクラに、抱き上げられている。
「あと少しで着くから、静かにしていてくれ。お前の部屋に運んでいるだけだから」
「部屋……?」
「宴席で、白葡萄酒を煽って倒れたんだ。暗かったから、水と間違えたんだろう」
 急に動いたせいか、驚くほどの目眩がする。言われなくとも、ルエルは一瞬で大人しく腕に沈んだ。
 ザキルが慌てていたぞ、と言われて、倒れる直前のことを思いだす。会話に気を取られて上の空で、水にしては妙なものを飲み込んだと思ったが、あれが白葡萄酒だったとは知らなかった。飲んだのは初めてだ。
「――ルエル様……!?」
 暗い廊下の向こうに明かりが見えてきたと思ったら、耳慣れた声が聞こえた。サルマだ。宴のあいだに部屋の掃除をすると言っていた彼女は、ちょうど仕事を終えて出て行くところだったらしい。
 ジャクラの姿を見て深々と頭を下げながらも、ランプを手にルエルの元へ駆け寄ってきた。大丈夫、と言おうとしたのだが、思うように口が回らない。
「慌てるな、大ごとじゃない」
「で、では一体なにが……」
「宴の席で、手違いで酒を飲んだ。悪いが、ドアを開けてくれ。あと、水を持ってきてほしい」
 ジャクラはサルマに、しばらくは自分がついているからと言って行かせ、ルエルを抱えて部屋へ入った。大きな明かりは消されているが、入り口と枕元のランプは点けたままになっている。ベッドはサルマが整えてくれて、寝具が一式、綺麗に替えられていた。
 枕を引き寄せて、もたせかけるように下ろされると、シーツの冷たさが足に染み渡る。否、自分の肌がやけに熱いのか。


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