6:予兆


 しかし実際、ジャクラの登り方は危なげがなく、言葉では止めるようなことを言ったものの、ルエルも内心はそれほど切迫していなかった。予想外のことをされたので、咄嗟に止めようとしたというだけで、何が何でも下りてもらわなくては不安だとは思えない。
 平らな面などほとんどないように見える枝の上を、片腕を近くの枝にかけて、彼は的確に歩いていく。
「ルエル」
「はい」
「受け取れるか?」
 どうやら穴を開けられていないものが見つかったようだ。頷くと、上から実が投げ落とされた。高いといってもそれほど離れていないおかげで、両手を伸ばしてどうにか落とさずに受け取る。もう一つ、と言われて、今度は片手で取った。
「ああ、これもだな」
「え、待……っ」
 二つしかない手のひらに向かって、三つ目が落ちてくる。
 ルエルは咄嗟に、自分のドレスを両手で持ち上げて、スカートを袋にして無花果を受け取った。
「あ……」
 体が勝手に動いてしまってから、頭が追いついて、さあっと冷える。ドレスの裾を膝より高く持ち上げるなど、はしたない。良いですか、階段で持ち上げるときも、あくまで爪先を出すだけに留めるのですよと、ニフタでルエルにマナーを教えていた侍女の言葉が甦ってくる。
 女性がそれ以上に足をさらすのは、品性に欠ける行為です。彼女の声が脳裏に響き、ルエルは思わず、恐る恐る上を見た。
 藍色のドレスの上で転がる無花果を、生い茂る葉の間から、ジャクラは見ている。
 彼が次に口を開くときを、ルエルは怖れた。もっとも、それが怖れだと分かったのはずっと後で、このときはただ心臓が身を縮めるような未知の感覚に、細い両肩を竦ませただけだったのだが。
「いいな」
「え?」
「それだったら、もっと持てそうだ。父上たちと、大臣たちにも持っていってやろう」
 思いがけない返答に、詫びかけた口を開けたままにしてしまう。ジャクラの反応は、ルエルが想定したものとは大分違っていた。
 拍子抜けするほど呆気ない、特に何とも思っていないことがよく分かる反応。むしろ彼は、賛同していると言ってもいい。軽々と隣の枝へ飛び移り、もいだ無花果を下へ落とす。
 まっすぐに落下したそれは、ルエルのドレスの上で弾み、他の果実と寄り添い合って藍色の底で静かになった。
「大臣、って……皆さまにですか?」
「ああ。八人もいるからな。せいぜい一つずつになってしまうが」
「お仕事中では?」
「だからだよ。ちょうど、一息いれるにはいい時間だろう。下りたら持つから、少し手伝ってくれ」
 ぽん、とまたドレスの上で、投げ込まれた無花果が弾む。隣の枝に移ったジャクラを追いかけるのが遅くなったのは、重たかったからではなく、頭の中が色々なことで絡まりそうになっていたからだ。ドレスを上げたことを叱られなかったことや、大臣たちに無花果を持っていくと言った彼のこと。
 からかわれて飛び上がるのとは別の、心に風が吹き込むような驚きが、折り重なって駆け抜けていった。ああまただ、と思う。ジャクラといると、それを感じるのはよくあることだ。
(……ライオンの子みたい)
 とん、と軽やかな足音に頭上を向いて、ルエルは思った。
 幹の窪みに片手をかけ、たわわに実のついた枝を引き寄せる仕草も。枝の間をしなやかに縫う背中も、短い鬣のように動く、深い茶色の髪も。昔、城に来た異国の商人が連れていた獅子の子を彷彿とさせる。子供ながらに金色の、古い宝石のような目をした獅子だった。
 商人がそれを連れてきたのは、買わせるためではなく、国王、つまりルエルの父への畏敬を示すためだった。ニフタでは、王家の紋章は代々獅子と決められている。強く、気高く、動じない――威厳ある大人の獅子だ。成長した獅子は、人の手には負えない。だから商人は、せめてその子供を連れてきたのだろう。
 動物を触らせてもらったのは、後にも先にも、その一回きりだ。もう何年も忘れていた思い出が、恐る恐る撫でた背中の温かさまで連れて甦った。
「あと一つだな」
 見れば、ドレスを支えている両手に、木漏れ日が注いでいる。影が揺れて、顔を上げると、ジャクラは琥珀色の目を細めて晴れやかに笑った。
 皇子らしくない人だ。
 ルエルは無意識にそう思ったが、悪い意味ではないような気がしたので、自らの考えを打ち消すことはしなかった。獅子の子のように木に登り、少年のように笑う。思えば、皇帝の子供がそんなことをしてはいけないと、誰が決めたわけでもない。
「――――……?」
 ふと、唇から呼吸が漏れたような感覚がして、ルエルは首を傾げた。嘆息には短く、普段、息を吐くのとはなんだか違う。そんなものがあったような気がしたのだが、ドレスを持ち直してわざわざ触れてみても、何だったのかは分からなかった。
 最後の一つの無花果が、木の上から投げられる。赤紫の熟れた果実でたわむドレスを広げて、迷わず受け取った。


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