28 コートドールの魔女
緑が輝き、色づき、褪せて、大地に静寂が訪れる。そしてまた太陽がそれを溶かし、緑が騒ぎ始める。
季節が舞台を入れ替えるように二巡したこの春は、いつにも増して暖かく、例年のコートドールに比べて短かった冬の背中はもう見えない。
「いい天気ね」
ベッドの上で体を起こし、眼下に広がる街並みの中を行き交う人々を眺めていた目線を空へと向けて、ユーティアは一人、嬉しそうに呟いた。誕生日を迎えた初春の頃から、春の空は日増しに青さを深めていく。六十五歳の誕生日。ユーティアはそれを、コートドール駅の裏手に建つ、小さな病院の一室で迎えた。
サイドテーブルに、いつのまにか一杯の水が置かれている。看護婦が回ってきて、汲んでいってくれたのだろう。薬のせいで眠気が強く、思ったより深く寝入ってしまったようだ。傍にきた人の気配にも気づかないなんて、と、苦笑まじりに水を飲む。
去年の秋に体調を崩し、いつもの通りソリエスにいたところを、酷い動悸に襲われて倒れてしまった。ベレットが見つけて医者を呼んでくれなかったら、今ごろどうなっていたかは分からない。
彼女が呼んだのは訪問診療を専門とする医者で、軽い治療を施されて目を覚ましたユーティアに、自宅で治せるものだとは思えない、どこかに入院を、と勧めたのはその人だ。言い難いことだが貴方は、と言い出された時点で、ユーティアは医者の目が彷徨っている場所に気づいて、そっと頷いた。
――心臓が、弱っているのですか。
訊ねると、彼は白衣の前をかき合わせて、痛ましげに頷いたのだった。
ユーティアはあまり驚かなかった。実のところ、少し前から何度となく、体調の優れない日が多いことを感じていたのだ。病院にかからなかったのは、何となくだが、検査を受けてしまえば入院を勧められるだろうと察していたからでもある。父の最期を思い返せば、もしかしたらと重なる節はいくつもあった。体質が似ているのか、それとも辿る道のありようが似ているのか。どちらにせよ、心はそれほど激しく揺れ動かなかった。
ユーティアは一旦症状が治まると、何事もなかったかのように、今までと変わらない生活を続けた。胸が痛むときは手製の痛み止めを飲んで、不調を感じたときは温かいハーブティーを淹れる。そうして日々を暮らしながら病院を探し、ついに自らの手だけでは苦しいと感じるようになってから、この病院を訪れた。
戦火を逃れて古くから続く、医者が一人と、その妻を筆頭に看護婦が四人という、小さな個人病院だ。ユーティアの症状を調べるなり表情を硬くして、もっと色々な手を尽くせる大病院への紹介をしようかと申し出てくれた。だが、ユーティアはそれを有難くも断った。初めからここに来るつもりだったのだ。他の病院にいく気は、あまりない。
――命を、無理に長引かせたくありません。私は私のまま、生涯を自分の目で振り返って、幸福だったと理解できるうちに眠りたい。
ユーティアの、たったそれだけの主張を、医者は正確に汲み取ってくれた。初老の、ユーティアよりは幾分か若いという年代の医者である。この病院の医療は古い。大きな手術や最新の治療はなく、薬で痛みを抑え、食事や風呂を用意して患者の生活を支えることが、この病院における入院のあり方となる。
人から見れば慎ましく、淡々としたものかもしれないが、ユーティアは自分の暮らしてきた日々が何よりも好きだった。そこから遠く引き離されて、土や風、太陽や水の匂いを、生きながらに思い出せなくなっていくことには耐えられそうもない。
ぎりぎりまで元の暮らしを続けることを選んだのも、そんな覚悟の上だ。すべての記憶をこの体に染みつけて、持っていくため。
ベレットには手術代がないのなら協力すると言われたが、金銭や止むを得ない事情による問題ではない。もっとも、ここ十年ほどは、仕事と呼べるほどの仕事をしてこなかったのも本当だ。大病院に入りたいと望むには、確かに資金も心許ないのだが。
窓の外へ向けていた視線を、部屋の奥にある洗面台へと巡らせる。備えつけの鏡に映った飴色の目が、少しこけた頬の上でじっと問いかけていた。
自分のことは、自分が一番、誰に言われたわけでなくとも分かっているのではないの、と。
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