19 袋小路と二人の看守


「それにしても、まさか一日でノルまで侵攻されるとはなあ」
 ばさっと、あまりに勢いよく起き上がったせいでスカートが膝上まで捲れ、シーツに叩きつけられた。物音に驚いたように、二人の話し声が止まる。かつかつと速い足音を立てて、レドモンドが鉄格子の向こうに顔を覗かせた。ユーティアと目が合うと、ばつの悪そうな顔をして眉を寄せる。
「なんだよ、起きてると思わなかった。あんた、静かすぎるだろ」
「……今の、話……」
「聞いてたんだ? しょうがないけど、あんまり言いふらすなよ。聞かなかったことに――」
「ノル……、ノルに敵兵が入ってきているんですか? 町は戦場になってしまったの? 建物とか、町の人たちは?」
「は、はあ?」
 鉄格子に駆け寄って矢継ぎ早に訊ねたユーティアに、レドモンドは驚いたように目を丸くした。後ろに控えているティムを振り返り、ただならぬ様子のユーティアを見下ろして困惑した表情を浮かべる。
 お願いです、知っていることがあるなら、とベッドで寝ていた髪を整えることも忘れて、縋るように繰り返すユーティアの前に、彼は無言でしゃがみこんだ。ユーティアはいつのまにか、鉄格子を掴んで座り込んでいたのだった。レドモンドが怪訝そうに、見開かれた飴色の目を覗き込む。
 ユーティアはだんだんと頭がすっきりしてきて、自分が夢うつつのまま駆け寄ったことに気づいた。うなされたように上がっていた息を整え、ゆるんでしまった髪を解く。薬草の匂いがつんと漂って、風呂に入らず転寝してしまったことを思い出した。慌てて振り返ると、窓の外は暗い。小一時間ほど眠ったくらいだろうか。
「落ち着いたか?」
「ええ、ごめんなさい。ちょっと、うとうとしていて……」
「見れば分かるよ。それよりあんた、ノルに何か思い入れでもあるのか? 故郷だとか、家族でも暮らしてるとか」
 騒がしくするなと一蹴されるかと思いきや、レドモンドは意外に立ち上がる様子を見せず、質問を返してきた。眸の奥に目の前の囚人に対する興味と、一片の真剣さが見え隠れしている。
 ユーティアはしばらく言葉に詰まってから、少し濁した返事をした。
「私の故郷ではないわ。でも、家族みたいな人の故郷で……」
「そいつの家族が住んでる?」
「……いいえ、いないと思う。でも、生まれ故郷って特別な場所でしょう? その人は今、国境に行っているの。故郷が戦場になっているなんて、知ったらどう思うかしら、って」
 脳裏に、いつも忘れることのないベレットの顔が思い浮かぶ。ユーティア、と明るく笑う、彼女の顔だ。彼女を思い出すとき、暗い顔が浮かぶことはほとんどない。彼女はいつも自信ありげに笑う。戦場へ旅立つときでさえ、それは揺らがなかった。
 ベレットが決して、脆い精神の持ち主でないことは分かっている。お世辞でも贔屓目でもなく、彼女は強い。だが、そういう弱みの少ない人ほど、傷つくときは大きく傷つくものだ。戦地で彼女がもし、故郷の状況を耳にしたとしたら、何も知れないよりはいいといつものように笑うのか、あるいは悲しみで呆然自失となってしまうのか。
 長く付き合ってきたはずなのに、想像がつかなくて恐ろしい。ベレットはあまり、ノルのことを話題にしなかった。彼女が心の底でもし、自分がサロワを想う気持ちと同じくらいにノルを想っているとしたら、その悲しみは戦場で判断を鈍らせる大きさのものではないか。
 伝わってほしいようにも、伝わってほしくないようにも思う。ベレットの身を案じて葛藤するユーティアに、看守たちは再び顔を見合わせ、ティムが仕方なくといったふうに口を開いた。
「リュスの海軍を破ったセリンデンは、上陸してすぐに、一旦はノルを拠点にしようとした。だが、あそこはあまり豊かな村じゃない。奴らはすぐに南下して、物資の豊富な、近くの商業都市を抑え直したそうだ」
「え……」
「よってノル自体の被害は、大して出ていない。戦況としては、良くないほうに転がったがな」
 潜めた声で言って、これで気が済んだかとでも言いたげにため息を漏らす。レドモンドが嘘ではないと保証するように、ユーティアと目を合わせて頷いた。
 ノル、と聞いた瞬間から打ちつけるように激しかった鼓動が、だんだんと収まっていく。ティムの言うとおり、物流の拠点である大きな都市が占領されたというのは、戦況としては非常に良くない。分かっているのだが、心の底から湧き上がってくる安堵を捨てきることはできなかった。
 廊下におろしていた膝をはたき、レドモンドが立ち上がる。


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