17 石の底の再会


「……僕は、間違っていたのか……?」
「サボ?」
「僕は昔、君がグリモアを明かしてくれなかったのは、僕を心から信用してくれなかったからだと思ったんだ。自分がグリモアと天秤にかけられて、負けたんだと思った。できる限りのすべてを、君にしてきたつもりだった。愛情を証明する手立てが尽きているのに、まだグリモアに遠く及べない――そう思ったから、情けなくて、腹が立って、虚しくなって、君と別れた」
「……ええ」
「君にとってグリモアが、こんな扱いを受けてまで明かしたくないものだとは……いや、明かせないものだとは、あの頃は思っていなかったんだ。ユーティア、僕は……」
 思いがけない昔の話をされて、ユーティアは内心、驚きにあたふたしてしまった。あのときのサボが、グリモアと自分とどちらかを選んでほしいと思っていたのは分かっている。でも、選ばなかったのではなく、選べなかったのだ。
 彼はどうやらここでユーティアと再会して、それを理解したらしい。吐き出すように捲し立てていた言葉はいつしか力を失って、消え入るような声で「僕は」だけを繰り返しながら鉄格子を握りしめたかつての恋人の姿に、胸が痛んだ。
 もしや彼は、後悔しているのだろうか。
「あなたが今、私をどう思っているのかは分からないけれど」
 ユーティアはそっと、彼の手に指を重ねた。
「私はあなたを怒ったり、恨んだりはしていないわ。むしろ本当はずっと、私があなたに謝りたかった。グリモアを明かせなかったことは、例え今だとしても同じ選択をしたと思うのだけれど、私には伝えられない理由をもっと説明する義務があったわね。本当に、言葉足らずでごめんなさい……」
 長年のあいだ心の中にしまい続けていた後悔を、ユーティアは初めて口に出した。別れを切り出されたとき、辛くても秘密を守らなければと思う気持ちで精いっぱいで、サボを突き放すことが最良の選択なのだと、あのときは本当にそう信じていた。他にどうしたら良いのか、考える余裕はなかった。それはユーティアが若かったせいでもあるし、サボを心から愛していて、その気持ちを手放さなくてはという一心で自分自身も傷ついていたせいでもある。
 好きだったから、離れたくなくてグリモアのことを話題に出すのを避けていた。愛していたから、最後のときまで冷静になることができなかった。すべて気持ちが本物だったからこその態度と、結末だ。
「でも、それでも私はもっと、あなたに多くのことを話すべきだったの」
「ユーティア……」
「ああ、ごめんなさい。いい歳をして、どうして涙なんて出てくるのかしら」
 微笑んでみたものの、今度は笑顔で泣いているという奇妙極まりない顔を晒してしまう。ユーティアはサボと繋いでいないほうの手で急いで涙を拭い、少女でもないのに、と心の中で呆れ笑いを漏らした。
 戸惑っていたサボが、やがて静かに微笑んだ。それは言葉にされなくても、彼がユーティアの二十年間の思いを受け入れ、理解してくれたのだと分かる表情だった。
 あのね、と彼が口を開く。
「僕はあれから、三人の女性と恋をしたんだ。一人は明るく、一人は美しく、一人は聡明な女性だった」
「そう……」
「でも、その誰とも結婚することはできなかったんだ。どうしてだか分かってくれる?」
 ユーティアはわずかに、首を斜めに傾けた。
「生涯の人について考えるとき、二十年前からずっと、僕の中には君がいるからだ。あのとき、君とは当たり前に結婚したいと思えたのに、他の恋人ではそうはいかなかった」
「サ……」
「今さら、それをどうこう言うつもりはないよ。だけど、一つ教えてほしい。もし僕がグリモアを教えてくれなくてもいいと言っていたら、君は僕と結婚していた?」
 それは二十年前の、もう一つの可能性を想起させる質問だった。もし彼が、グリモアのことを気にせず、内容なんてどうだっていいという素振りであったなら。結婚と引き換えにされるものは、何もなかったということになる。
 ユーティアは少し考えて、顔を上げた。
「分からないわ。きっとそうしたいと思ったでしょうけれど、あなたに秘密を抱えたまま傍にいるのは、私にとっても難しいことだから」
 微笑めばサボは少し目を見開いて、それから「そうか」と頷き、吹っ切れたように笑った。ユーティアはそんな彼の姿を今でも愛しいと思える自分がいることに気がついたが、それを口に出すつもりはなかったし、サボもまた、ユーティアが今でも独り身でいることに関して理由を質すつもりはないようだった。
 互いに今さら気持ちを確かめたり、結婚したりしたいとは思わない。けれど彼との間には、知人と呼ぶにも友人と呼ぶにもそぐわない、視線や手のひらを合わせるだけで通じ合う何かが残っている。ユーティアはその感覚を、大切に覚えておきたいと思った。牢の中にいても、町の中にいても、例えどんなに遠く離れたとしても。
「君のグリモアにかける覚悟はよく分かったよ。何か僕に、協力できることはある?」
 鉄格子から手を離して、サボが問う。ユーティアは遠慮がちに手の中の手紙を見て、母への返事を届けてほしいと頼んだ。サボは快く了承し、便箋はあるかと訊ねた。小奇麗なものはないが、ノートを切れば十分に書ける。
 彼は明日の午後、封筒を持ってくるからそれまでに書いておいてくれと言い残して帰っていった。兵士が付き添うように連れていき、石の塔は再び静けさに包まれる。
 ユーティアは一人になってから、母の手紙をゆっくりと開いた。内容は主に、ここ数週間の電話が一度も通じないが何かあったのかと、ユーティアの身を案じるものだった。ノートを切り、書き物机の端の日が当たっているところに紙を置いて、返事を書く。
 牢にいるなどと知ったら母がどれほど仰天するかと思うと、文言は慎重にならざるを得ない。ユーティアはたった一枚の紙を埋めるのに、夕食までの長い時間を費やした。


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