16 国王ウォルド


 視線を合わせて数秒、黙っていたベレットは、やがて「そう」と頷いて吹っ切れたように微笑んだ。
「分かったわ。あんたがそう決めたなら、きっとそれが正しいんでしょう」
「うん」
「私は、国境へ行くわ。他の魔女と一緒にね。もう行くって書類にサインしちゃったし、行きたいわけじゃないけど私は多分、行くべきなんじゃないかと思うの」
「それは……?」
「グリモアのため――っていうには、ちょっと直接的じゃないんだけど。まあでも、この戦争は近くで見ておくべきかなって、そんな気はするのよね」
 うん、とベレットは自分に言い聞かせるように腕を組んで頷く。思えば彼女も出会ってから今まで、一度もグリモアを明かそうとはしなかった。もしかしたらベレットのグリモアも自分と同じ、炎に呑まれても焼けないようなものなのではないかという考えが、ふと頭を過ぎる。
 彼女はそれすらも見透かしたように、ユーティアの眼差しに気づいて笑った。
「心配しなくたって、危なくなったらちゃんと逃げてくるわよ。この町に帰ってくれば、あんたはいるでしょうし、また案外すぐに会うわ」
「ええ、そうね」
「そういうわけだから、ちょっと行ってくるわね。王様に何か、伝えたいことはある?」
「王様に?」
「会ったら様子を報告してくれって言われてるから、このあと行くのよ。必要なものがあれば揃えてくれるようなことも言ってたけど、欲しいものない?」
 ユーティアは少し面食らって、瞬きをした。牢に入ってから一度も、王からは何の言伝が来たこともなかったので、自分はここに閉じ込めて彼の目から引き離されたのだとばかり思っていた。
 様子の報告はともかく、まさか要望を訊かれるとは思ってもみなかったので、咄嗟に言葉が出てこなくて焦ってしまう。ええと、と部屋を見回して、ユーティアは唯一思いついたものをほろりと口にした。
「日記……」
「日記?」
「ええ。日記をつけられるような、ノートとペンがほしいわ。何でもいいから」
 ベレットは呆気に取られたような顔をして、はあ、と困惑の声を漏らした。
「いいけど、牢で書くことなんてある? 何にもなくて、虚しくなっても助けてやれないわよ?」
「大丈夫よ、結構あると思うの」
「そう。なら一応伝えてみるわ。もらえるかどうかは、分からないけど……」
「ええ、ありがとう。お願いね」
 日記がつけられる可能性が見えて機嫌を良くしたユーティアに、ベレットは苦笑した。牢に入ってまで日記をつけるのをやめたくないだなんて、変な癖だと思っているのだろう。けれど彼女なら、きっと王様に伝えてくれるはずだ。それを与えるか否かの選択は、ウォルドの心にしか決めることはできない。
 ユーティアはちらと彼女を見上げて、ベレット、と呼びかけた。
「無事でいてね。自分から、危険に飛び込むような真似をしたらだめよ。怪我人を思うことは大切だけれど、寝食を忘れて働いたり、ご飯を譲りすぎたりしてもだめ」
「何それ。私が倒れるほど身を削って他人に尽くせるような性質じゃないことは、あんたが一番知ってるでしょうに」
 ふき出すようにベレットは笑ったが、ユーティアは仄かに唇を上げるので精いっぱいだった。こんな心配が本当に必要のない相手なら、きっとこんなに長く付き合っていない。
 ユーティアは人の、優しいところが好きだ。自分が彼女のどんな面を、心の底で想っているのか、口にしたことはなくても気づいていないわけではない。
 鉄格子をゆるく握ったままの手に指を重ね、今こそ彼女に捧げたい祈りがあることを思い出した。
「……ユーティア」
「何よ、それはあんたの名前でしょ」
「そうよ。意味はね、〈祝福あれ〉。どんなに遠く離れていても、あなたに幸運を。そういう意味なの」
 きっぱりと告げると、茶化すようだったベレットの目がふいに真面目なものになる。彼女はユーティアの手を握り返して、そうだったの、と頷いた。
「その言葉、いつまでくれたと思っていい?」
「生きている限り、一生分よ。このお祈りには、けちくさい期限なんてないの」
 ベレットの後ろで、兵士が落ち着きなく壁を見上げている。時計を気にしているのだ。あまり長く話をされると、王に一体なにをしていたと問い質されるのかもしれない。
 ユーティアの視線を追ってベレットもそれに気づき、あからさまなため息をついた。兵士が慌てて壁から目を逸らし、何でもないような素振りをする。黒い帽子を脱いで、ベレットは笑った。
「行ってくるわ」
 格子の間から伸ばした腕で抱き合うと、かすかに薬草の匂いがこぼれる。ユーティアは額に触れる鉄の冷たさも構わず、いってらっしゃいと答えて背中を叩いた。

 その晩、夜ごと塔の警備に訪れている看守が、王からの届け物だといってノートとペン、インクと蝋燭を持ってきた。インク瓶は三つあり、黒と青、それに草木を思わせる深い緑だった。
 ユーティアは早速、殺風景な部屋の中で机に向かってノートを開いた。三日前の日づけから書き始めて、色々なことを思い出しながら、じっくりと記していく。
 紙の上を滑るペン先の音と滲み出るインクの匂いは、ユーティアの不安定だった心を落ち着かせてくれた。線の細い文字がノートに並ぶたびに、自分が自分に戻っていくような、そんな感覚が胸を満たす。一人暮らしを始めたばかりのときも、日記を書くと気持ちが穏やかになるのが好きだった。日記をつけるという行為は昔から、その内容に関係なく、ユーティアの心を良い状態へ運んでくれる。

 ベレットを含む、三百余人の魔女が国境へ向けて出発したという看守たちの話が漏れ聞こえてきたのは、それから三日後の夜のことだった。


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