16 国王ウォルド


「では、署名の済んだ方から列にお並びください」
 テーブル全体に紙の束が回され、一人一枚ずつ取るようにと指示された。それは従軍に同意することを宣言する、誓いの書類だった。サインを、と急かされて、いつしか室内にペンを走らせる音が響き始める。中にはこの従軍を前向きに捉えている魔女もいて、そういう者が最初に署名を終えると、兵士は彼女たちを促して王の前へ進み出させた。
「感謝と、敬意と祈りをこめて」
 ウォルドはその一瞬だけ、まるで天使を前にした敬虔な信徒のように、青い目を伏せて呟いた。書類を差し出した魔女の手に、バッジが贈られる。アザレアのバッジを胸に留め、魔女は王に一礼して、部屋の奥へ戻った。
 数席となりで、若い魔女がどうしても名前を書かなくてはだめかと気丈に訊ねている。途切れ途切れの会話の中で、彼女は兄弟がたくさんおり、自分の作る薬が家族の生活を支えていることを訴えた。だが兵士が、それならばあなたの収入に近い額を送金するようにしたいので家族の居所と詳しい構成を、と求めると、途端に押し黙ってしまう。
 彼女は、嘘をついたのだ。兵士は咎めることもしなかったが、小声で何か、宥めるように言って、少女は観念したように震える手でペンを取った。触発されたように、近くに座っていた魔女たちも名前を綴った。インクの匂いが、瓶を一つ引っくり返したように濃い。
 ユーティアはうるさいくらいに鳴る鼓動を抱え、紙を掴んで立ち上がった。気づけば、まだ席を離れていないのはユーティア一人だった。兵士がちらと視線を向けて、それから魔女たちを整列させる仕事に戻っていく。
 ユーティアは心持ち、ゆっくり歩いた。兵士はユーティアを列の最後尾に並ばせ、後には誰も、並ぶ者はいなかった。
 バッジは手際よく渡され、列は次第に短くなっていく。やがて王の声が聞こえる距離になり、その足が見える距離になり、前に立っていた魔女が下げた頭の向こうにその顔が見え、ユーティアが王の前に足を踏み出す順番がやってきた。
「……紙を」
 いつまでも動かないユーティアにしびれを切らし、王が小声で指示する。口元に、優しく諭すような笑みをのせていた。
 ユーティアは国王として、彼を嫌いだとは思わなかった。苛立ちで崩されることのない、穏やかな居住まい。あくまでそれを自らの本質であると印象づける、眉の先から指の先まで、徹底した振る舞い。貴い人なのだという印象を強く与える彼のあり方は、千人を前にしているときも、自分一人を前にしているときも変わらない。
 ユーティアは深く、息を吸った。そうして胸に抱えてきた書類を、王の手へ差し出した。
「……ペンの配り忘れがあったようだな」
 ウォルドの目が、ほんの一瞬ユーティアを鋭く射抜く。その手に渡された紙は、署名欄が空白のままだった。事態を察した兵士が、慌ててペンを持ってくる。ユーティアは彼の存在などまるで目に入っていないかのように、王の眸を見据え、口を開いた。
「できません」
「ほう」
「署名は、できません。申し訳ありません」
 背後がにわかに、息を呑んだのが分かった。兵士も魔女も、全員がユーティアの背中に視線を集める。その百を超える眼差しよりも、王一人の眼差しに足が震えそうになった。
 感情の読めない、温かみも冷たさも今は持たない目。
「理由はなんだ」
 人がこんなに、人形のような目をするのを初めて見た。背筋がじっとりと冷たくなるのを感じながら、ユーティアは懸命に手足に力を込める。絶対にここで折れてはならないと、頭の中にいるもう一人の自分が語りかけてくるのが聞こえた。抱いたグリモアの背表紙に、爪を立てる。
「この戦争に従軍すると、私はグリモアに反してしまう可能性があります」
 王がわずかに、目を見開いた。もっと別の理由が述べられることを予測していた、そんな顔だった。呆気に取られた、とも、拍子抜けした、とも言える。この期に及んで何を言い出すかと思えば。そんなふうに思われたことが、垣間見える表情だった。
 だが、魔女たちの反応は違っていた。ユーティアがグリモアを理由に従軍を拒絶したことで、彼女たちのざわめきは一層大きくなった。それも当然だ。魔女たちの中にはおそらく、まだグリモアを達成していない者も多くいる。彼女たちからすれば、ユーティアの意見が認められるなら自分たちにも従軍の義務はない――そう思わざるをえない。
「この者以外を、先に連れて行け。庭へ案内して、小銃の扱い方を教えるように」
 王が素早くそう指示すると、兵士たちが動き出して、犬が羊の群れを追い立てるように魔女たちを部屋から押し出していった。高まりかけた従軍への批判が、閉まるドアの向こうに吸い込まれて消えていく。
 ユーティアは王を振り返った。彼はすでに、ユーティアを見ていた。


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