8 朱夏


 あの頃、まだコートドールという町を目に映したことさえなかった。
 月日の長さを、そして速さを改めて思う。一日一日は、こうしてお湯を沸かす間でさえ長く感じるときもあるのに。
 ユーティアはポットにお湯を注ぎ、ミントクッキーを皿に並べてお茶が入るのを待った。カップに注ぐと、清涼感のある香りが辺りに漂う。ふ、と胸の綻ぶような、この瞬間がユーティアは好きだ。お茶だけに限ったことではない。花を摘むとき、カーテンを開けるとき、誰かと会話中に視線が重なるとき。
 ――幸せに、なりなさい。
 この胸の綻びを感じるとき、必ずと言っていいほど、耳の奥の深くでそう声がする。先生、と呼んでも返事はない。こだまになった言葉が、今もユーティアの耳に響く。
 多分、この綻ぶような感覚こそが、自分の思う「幸せ」の咲き方なのだろう。ユーティアは軽く、胸に手を当てた。鼓動がとくんと、手のひらの感触に応える。擦れたシャツの生地から、裏庭の果樹と太陽の匂いがする。それもまた一つの幸福として、ミントの香りと共に、リビングに溶けていった。
 カップを唇につけて、ふう、と少し冷ます。ふと、視線を感じて顔を上げると、サボと目が合った。
 明るいグリーンの両目が、ユーティアをじっと見つめてから、はっとしたように瞬きをした。
「なに?」
「……いや? 何でもないよ。美味しそうだね」
 言葉を交わせばすぐに、朗らかな声が返される。ミントクッキーに手を伸ばして、サボはうん、美味しい、と微笑んだ。
「良かった。たくさん焼いちゃったから、遠慮なく食べて」
「うん。ねえ、ユーティア?」
「ん?」
「……うん。愛してる」
 ミントティーをむせそうになった。
 驚きに目を合わせれば、サボはそんなユーティアの様子をからかうように笑って、自分もカップを取る。赤みの強い彼の髪は、窓から射し込んだ光に当てられて、粒のように細かい反射を繰り返した。
 触れると柔らかな、癖のある髪。いつもは郵便配達の帽子を深く被っている、日に当たらない白い額。よく下がる目尻。ユーティア、と呼びかける、唇。
 ――この人が、好きだ。
「私もよ」
 答えて、何も気づかないふりで微笑みを返す。ユーティアは、分かっていた。サボが本当に望んでいるのは、愛の言葉を確認し合うことではないのだということを。
 出会って二年。共に過ごす時間は日ごとに増え、爪の形から飲み物の好みまで、互いに知らないところは少なくなるばかりである。そんな中で、彼は知りたがっている。自分の中に残る、今となってはただ一つの秘密になった、グリモアを。
 もはやそれだけが彼にとって、大きな穴のような謎なのだろう。
 ユーティアは冷ましたミントティーを飲み込んで、目の前のサボから視線を背けた。愛していると答えると、近頃、彼は喜ぶだけでなく、少しだけ寂しそうな顔をする。愛しているならどうして何も教えてくれないのかと、ずっとそう思われているのは分かっている。でも、口を開くことがどうしてもできなかった。
 サボはそれから間もなく、思い出したように仕事の話を始めた。


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