3 恩師


 ロメイユに暮らしていたころも、食事からお菓子まで、ほとんど自炊をしていた。ユーティアはそうして少額ではあったが、両親からの仕送りを使い切らずに、コートドールでの生活に向けて残してあったのである。
「そうねえ、昔だったらびっくりされたかもしれないけれど」
「先生?」
「私、実はもう先生は辞めたのよ。結婚したの。あなたたちを送り出した、二年後にね。髪を切ったのはその後」
 ユーティアは驚いて、座った椅子からもう一度立ち上がりそうになってしまった。メアリーはサロワでは珍しく、二十代後半になっても独身だった。それはメアリーが、他の少女たちが次々と結婚していくころ、ちょうどコートドールで教師になるための勉強をしていたからなのだ。
 早婚の女性が多いサロワとその周辺の地域では、大学へ行って地元へ戻ると、周囲がほとんど結婚してしまっている。ゆえに、女性がサロワで教師になるということは、多くの場合が生涯を独身で過ごすこととイコールだった。
「ずっと先生をやっていようかって思ったことも、一度や二度ではなかったのだけれどね。でもあなたを含め、たくさんの子供たちの成長を見てきて、思ったのよ。……私も家族を作って、子供を育ててみたいなって」
「そうだったんですか……、おめでとうございます」
「うん、ありがとう。まあ、まだ子供はいないのだけど、相手もサロワの人でね。お互い、教師になって十年以上やってきて、今さら結婚ってものが恋しくなった者同士なの。今は彼のほうが、あなたがいた学校で教えているのよ」
「サロワの学校、よく覚えています。廊下の板を染める夕焼けとか、階段を擦れ違うときの足音とか」
「そうね、私も。覚えているわ」
 ふ、と瞼を下ろして、メアリーはハーブティーに口をつける。その瞼の裏に思い出されている景色と、いま自分が想像している景色は、もしかしたら同じ夕焼けかもしれないとユーティアは思った。
 西日の眩しい廊下が、長く続く校舎だった。思えばあそこを並んで歩き、まだ見ぬコートドールの名を口にした日から、自分を囲む世界はずいぶん広く、大きくなったものである。
 首都での暮らしも半年が経つと、慣れるところは慣れてきた。もう駅前の商店街を歩くのに、地図を持つこともない。
「コートドールへ行くと聞いたときは、一体どういう生活をするのかしらと思って、結構心配もしていたけれど」
 リビングのドアから店内を見渡して、メアリーがうん、と頷いた。
「あなたらしい店だわ」
「私らしい、ですか?」
「そうよ。不用意に惑わされてはいなくて、でもコートドールのあり方を的確に受け入れていて」
 店を見つめたまま微笑んで、メアリーは続ける。
「丁寧で、華美ではないけれどきちんとしていて、人を安心させる雰囲気がある。あなたの良いところと同じね」
 彼女はそう言って、懐かしい香りのするシナモンクッキーをぱきんと齧った。

 メアリーはその晩、ソリエスの客室に一泊していくことになった。何度か来客に立ち上がりながら、思い出話に花を咲かせているうち、時刻は夕方になっていたのである。宿はどうするつもりかと訊ねると、コートドールなら駅の近くへ戻れば一軒くらいは見つかるでしょうとの答えだったので、ユーティアのほうから今夜はここで休んでいくように勧めた。
 石畳の道は、踵の高い靴で、宿を探して長々と歩き回るには適さない。思いがけず夕暮れが早かったこともあり、メアリーも申し出を受け入れて、春に両親が使って以来のゲストの少ない客室に上がった。
 二人で夕飯を作って食べ、食後にお喋りをしながらお茶を飲んだ。シャワーを貸して、それじゃあおやすみなさい、と一階で別れたのがつい先ほどのことだ。ユーティアは自分もシャワーを浴びると、濡れた髪を掬い上げるようにして拭きながら、屋根裏部屋に向かった。
 薄いレースのカーテンの上から、厚い臙脂と琥珀のカーテンを引こうとして、一度両方とも開ける。
 外は濃紺の夜に包まれて暗く、家々の明かりが宙に浮かんだ蝋燭のように灯されている。川面はそこに水の流れがあると見えないほど黒く夜に染まって、プラタナスの黄金色の葉だけが切り抜かれた紙のように散らばっていた。


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