28 コートドールの魔女


「うん、美味しいわね」
 ふと、ベレットが満足げに呟いた。琥珀色の水面から漂う甘い香りを吸い込んで、そうねと微笑み返す。ガラスのポットの底に残っていた少量のお茶を、ベレットはユーティアのカップに注いだ。
 光が、落ちていく最後の一滴に弾かれて、目映く輝く。強くて、けれど柔らかな光。季節はどれもかけがえのないものだが、太陽の姿に関して言えば、今が一番美しいときではないかと思う。
 ユーティアは無意識に、窓の外へ目を向けた。じきに夏が来るだろう。川面は強く照り、石畳は夜半まで熱を冷まさなくなる。虫たちがざわめく星座のように夕空を飛び交い、気づけばプラタナスの葉が色づいている。秋は大地の匂いを連れて、王者のように街の色を塗り替えていく。その背中が小さくなるころには、見上げる空が白くなり、雪が降る。
 大地は眠り、人も歩みを緩やかにする冬が訪れる。そうして、顔を上げればまた。
「……春になるんだわ」
「え?」
「何度でも、季節は変わらず巡るのねって。ふと、思ったの」
 今、まさに過ぎ去ろうとしている春も、やがてここへ還る。空と街の境目にその後ろ姿を見送った気がして、眸を綻ばせたユーティアに、ベレットは瞬きをした。
 なぜだろうか、額の裏に母の面差しが思い出される。明るさと力に満ちた、飴色の目。色の抜け落ちていない、豊かな髪の毛。もうずっと、何十年も前に失われたはずの若かりし母の姿が、今になってありありと浮かんでくる。
 祝福あれと、その唇が今にも自分を呼ぶ思いがした。
「まったく、何を言うかと思えば。急にどうしたっていうのよ」
 ベレットが笑って、ほら、と手を伸ばした。空になったカップをテーブルへ置き、手を借りて横になる。黒髪が頬や首筋をくすぐって、ユーティアも小さく笑い声を上げた。枕は陽だまりの匂いがする。ああ今日は、本当に。
「天気がいいわねえ」
 はためくカーテンの間から見える青空を、もっと広く見てみたくて、ユーティアは窓をすべて開けようと腕を伸ばした。だが、微睡みに体が重くなって、思うように動けなかった。ベレットが代わりに開けてくれる。カーテンが束ねられて、空がより大きくなった。
「ごめんなさい、ありがとうね」
「どういたしまして。少し疲れたんじゃないの。眠い?」
「ええ。……ねえ、ベレット」
「何?」
 思考が、日溜りに溶けていく。空の色が混じり始める。睫毛の間から見た海のような眸に、ユーティアはふと微笑みを浮かべて、言った。
「……暖かいわね、今日は」
 瞼を下ろすと、静かな呼吸を数度、繰り返した。
 そうしていつしか、眠るように息を引き取った。

 カチリ、と小さな音が、静寂にこぼれる。
 ベッドの脇に腰かけ、ユーティアの手を握ってその顔を見つめていたベレットが、ゆるやかに視線を巡らせた。
 サイドテーブルの上のグリモアが、背中に入った石を静かに輝かせている。ベッドに手を入れ、ユーティアの心音が消えたことを確かめるように目を閉じてから、ベレットは握っていた手をそっと日溜りへ下ろして、そのグリモアを引き寄せた。
 鍵は開かれていた。
 持ち主が使命を達成して生涯を全うしたとき、グリモアは初めて、その固く閉ざした鍵を開く。他者の手で本が開けるようになるのだ。重々しく、威厳に満ちた紫と金の書。グリモアは誘うように、中心を薄く開いている。
 ベレットは音もなく、膝の上でそれを開いた。目を落とし、ため息を一つついて、やがてふっと笑った。
「……最初からなんとなく、あんたじゃないかとは感じてたのよね」
 たった一ページだけ開くことのできる、運命の書。魔女の生涯を定める、使命の一ページ。古びて焼けた薄茶色の紙に、誰の字とも知れない字が走っている。
 ――アルシエ王国の敗戦と、それに伴う薬草魔女の終焉を見届け、記録せよ。
 ユーティアのグリモアには、二行に渡ってそう記されていた。ゆっくりと表紙を閉じて、ベレットは足元から、自身のグリモアを取り出す。
 手をかければ、自然とそれは開いて、何度目にしてきたか分からない使命が目の前に晒された。
 ――コートドールの魔女が遺す六十年の記録をもとに、東の大陸へ渡り、薬草魔女の叡智を再興せよ。
 神の文字、とでもいうのだろうか。二つのグリモアの筆跡は同じだ。澱みも迷いも、そこに含む愛もない。けれど従えば、人の世に転換をもたらす流麗な文字。抗うには恐ろしいからと、幼い頃から当たり前のように、自分はこのために生きて一生を捧げるのだと思っていた。けれど。
「おやすみなさい、コートドールの魔女。あんたが――」
 赤い表紙を閉ざして、二冊のグリモアを鞄に入れる。ベレットは身を屈めて、ユーティアの額にキスをした。
「私の使命で、よかった」
 顔を上げた彼女はそう言って唇に弧を描くと、帽子を被り、大きな鞄を持って病室を後にした。残された時間で、繋がれた使命を果たすべく、東へ向かう航路を頭に描く。
 祝福あれと、日差しの彼方で呼ぶ声が聞こえた気がした。


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