28 コートドールの魔女


 燦々と眩しい初夏の日差しが、投げ出した手のひらに降り積もっている。病室から見える空の色は春先に比べて一層青さを増し、カーテンを揺らす五月の風は、瑞々しい緑の匂いを運んできた。
 細く開いた窓と、レースのカーテンの隙間から零れてくる光をぼんやりと眺めて、ユーティアは緩やかに瞼を下ろしてみた。空の色が裏にくっきりと、染みついているようだ。近頃、ほとんどの時間を横になって過ごすせいで、鳥や詩人のように空ばかり見ている。流れる雲は少なく、絵筆で塗ったように澄み切った空だ。ごうごうという音に瞼を開けると、貨物輸送の飛行機がちょうど、両翼を広げて飛んでいく。
 踵を鳴らす足音が、反対側の廊下から聞こえた。
「ただいま、お湯もらってきたわよ」
「ありがとう」
 ガラスのポットを手にしたベレットが入ってきて、備えつけの小さな棚を開け、ハーブティーの缶を取り出した。狭い台の上で、手際よくお茶の準備を整えてくれる。
 ユーティアは腕に力を入れて体を起こし、ベッドの上に座った。
「いい香りね」
「でしょ? 自信作なのよ」
 ドライハーブがポットの中でみるみる開き、明るい琥珀色のお茶が並んだカップに注がれる。元はあんたのレシピなんだけど、オレンジとバニラで少しだけ香りをつけてみたの、とベレットは上機嫌に笑う。腕時計が、昼下がりのいい時間を示していた。彼女は毎日、朝から出向いた市場の仕事を午後のひととき切り上げて、夕方までの時間をここで過ごしていく。
「お菓子にも結構合うんじゃないかと思って。食べられる?」
「ええ、一つ頂戴」
「はい」
 戸棚から別の缶を取り出してきて、ベレットはそれをテーブルに開けた。しばし迷ってから、今日はこれにする、とガレットを取る。ユーティアが選ぶと、ベレットはそれならこっち、と言ってバタークッキーを取った。
〈ラ・ドゥーズィエム・ソリエス〉。質素な包装の外側に、店名を記したシールがさりげなく貼られている。
「いただきます」
 ユーティアは目の前にいるベレットと、この菓子を作った店主、二人へ向けて口にしてからガレットをかじった。缶の中の菓子はすべて、レドモンドが自分の店で焼いて、見舞いにと持ってきてくれたものだ。彼は今、かつての〈ソリエス〉で洋菓子店を開いている。
 今年の三月、ユーティアは長年続けてきた自分の店を畳んだ。今はあの場所を、建物はそのままに、レドモンドへ譲っている。コートドールで独立を考えているという話を聞いて、手紙にしたためた申し出を、彼は「一生の光栄」と呼んで快く受けてくれた。そうして先月、久しぶりにこの街へ帰ってきて、あの家を引き継いだのである。
 一階はキッチンを広く作り直し、店舗だった部分はほとんどそのまま。裏庭は世話の簡単な果樹を数本残して、テラスとして改装された。開店を翌日に控えた前夜、写真を持ってきてくれたのでよく知っている。藍色に塗装された鉄のテーブルと椅子が何組か設置された、雰囲気のいい、小洒落たテラスだ。
 カフェスペースになっていて、ケーキやハーブティー、ごく軽い食事などを頼むことができる。店の看板メニューはケーキだ。
 ずっと離れた町から送ってもらってばかりだったため、ユーティアはレドモンドの作るものといえば日持ちのする焼き菓子しか食べたことがなかったが、彼はケーキ職人の元でも学んでいる。コートドールに帰ってきて初めて、試作品といって持ってきたケーキは、この華やかな街でもきっと霞まないと確信できる味だった。
 一階の店内では、カフェの注文を受けつつ、焼き菓子を並べているという。まだ開店して間もないゆえの目新しさも手伝っているのだろうが、始まりは概ね順調のようで、忙しそうにしてたわよ、とベレットがよく賑わいを報告してくれる。
 レドモンドはあの家をすべて店舗として使うつもりらしく、住居は川向のアパートに引っ越してきた。おかげで屋根裏部屋の片づけを急がなくてもよかったことには、ユーティアも安堵している。
 服や生活用品は前々から少しずつ整理していたので、残っていたのはごくわずかなものばかりで、それらはベレットが預かると申し出てくれた。残っているのは、山のような古い日記帳だ。何せ六歳で書き始めてから、一冊も捨てたことがない。幸運なことに戦火も免れて、すべてあの屋根裏部屋に収まっている。
 事情を話したレドモンドが、空いているところだけを倉庫として使うからいいと言ってくれたもので、屋根裏はユーティアの部屋だったころとあまり変わっていない状態だ。
 彼は気になるなら日記をどこか別の場所へ――それこそこの病室へでも、まとめて移そうかとも言ってくれたが、ユーティアはあまり気にしていない。邪魔にならないのであればしばらくそのまま、興味があれば見ても構わないと言えば、レドモンドはつくづく変わったものを見るような目をして分かったと頷いた。
 あれは、日記という装いを持った記録書だ。


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