24 コートドールへ


 自分の周りにあったすべてのものが、何もかも傷つかずに残っているなどと、そんなに都合のいいことがあるはずはない。戦争が始まったときから、願うことと現実は絶対に一致してくれないと分かっていたはずなのに、涙が滲んだ。理解と思いは別物だ。信じることのできない気持ちと、真実を認めなくてはと働きかける気持ちとが、糸のように絡まり合ってうまく一本を取ることができないでいる。
 顎を伝って首へ流れていく涙を、マルタの手がそっと拭ってくれた。
「多くのものがなくなってしまったわ。お城はもう見てきた?」
「いいえ」
 首を横に振ると、マルタがぽつぽつと現状を話してくれる。
 曰く、城は空爆によってそのほとんどが崩れてしまった。セリンデンの攻撃だけが原因ではない。戦争の末期には、コートドールも飛行機を造り上げ、セリンデン軍と空での戦いが行われていたそうだ。爆薬が昼夜を問わず雨のごとく降り注いで、その下には、城も例外でなく佇んでいた。
 戦争が終わった今、城は一度取り壊され、新たに建て直されている。セリンデンの軍が常駐し、敗戦国であるアルシエでの活動の拠点として使う予定らしい。以前よりも機能的で、装飾の少ない城が建てられている。広々と解放されていた前庭には、彼らの住まう寮が建てられた。まだまだ仮造りで、雨風をどうにか凌ぐ程度の、外観などは二の次の建物である。
 脳裏を、いつか踏んだ柔らかな芝生の緑が染め上げる。それは詩集を読んだ庭でもあり、戦争の始まりを確信した庭でもあった。そして、二人の看守に連れられて、石の塔から駆け抜けた庭でも。
「王様は……、ウォルド様は今どこに?」
 ユーティアは氷のような、それでいて清らかな空のような、ウォルドの眸を思い出していた。最後に見たのは、グリモアを焼いて牢へ閉じ込めるよう命じられたときだ。冷たい目だと思った。怒りに澄んで、空恐ろしかった。
 けれど、自分を最後に逃がしてくれたのもまた、ウォルドだった。
「セリンデンにいらっしゃるわ。身柄を拘束されていて、王位はいずれ剥奪されてしまうことが決まったみたいだけれど、ご無事よ」
「命は守られているんですか? ご家族も?」
「ええ、皆さま無事みたい。ウォルド王は四国同盟の責任を取って命を渡すと申されたそうだけれど、他の三国の王家の方々が、嘆願書を送ってくれたそうよ。どうか、子供を作らず、血を絶やす約束と引き換えに、今いる王家の人々だけは静かに生を全うさせてほしいって」
「そう……、そうだったんですね」
「セリンデン王も、これから手を広げていく国の人たちに、これ以上の恨みは買いたくなかったんでしょう。嘆願を受けて、それほど迷わず了承したそうよ。ウォルド様たちも、いつかアルシエへ戻れるといいわね。今はまだ、アルシエでも戦争への傷が深すぎるから、戻れないでしょうけれど……」
 声を落としてそう言ったマルタに、ユーティアも静かに頷いた。ウォルドが生きている。その事実に、自分でも思いがけないほど、胸のつかえが軽くなっていた。
 戦争を始めるのは、王の号令だ。そして終わらせるのも。戦争が始まらなければ消されなかった命の灯火は数え切れずあり、戦争があと一日でも早く終わっていれば、絶たれなかった眸の輝きがいくつもある。
 今、ウォルドが国内に戻れないことは、良いことなのかもしれない。人々の矛先は、彼に向かざるを得ないだろう。王位を失い、護ってくれる兵士をなくした王やその家族が、今のアルシエで暮らしてゆける保証はどこにもない。
 ユーティアは長い瞬きをした。そうして心の中で、自分の名を祈った。あの長い戦争の中で、何年も顔を合せなかった月日の中で、炎の渦の中で、石の塔に取り残されていた自分の存在を忘れていなかった、そんな王への密かな感謝を込めて。
 草を踏み分ける足音に気づいたのは、伏せていた目を再び開けたときだった。
「おい、あんた。いつまで外に――」
 ガラス球のように目を丸くして、マルタがユーティアの、肩の向こうを見つめている。声のほうを振り返って、ユーティアは同じような顔でマルタを見下ろしている、レドモンドの存在を思い出した。
 マルタと再会できたことに驚くあまり、彼を部屋に待たせていることをすっかり忘れていた。ユーティアがなかなか戻ってこないので、様子を見に来たのだろう。ごめんなさい、と軽く詫びて、二人の間をもつ。
「紹介するわ、こちらはマルタさん。私がコートドールに来た頃からの、お得意さまで、ご近所さんなの。こちらはレドモンド。彼は、実は……」
 ユーティアは紹介がてら、自分とレドモンドが出会った経緯や、サロワに帰っていたことについて話した。マルタは牢獄と聞くと驚きに首を横へ振り、故郷と聞くとほっとしたように目を細めて、ユーティアの話に頷いた。
「そう、じゃあ本当に戻ってきたばかりだったのねえ」
「ええ、ついさっき」
「戻ったその日のうちに会えるなんて、毎日ここへ足を運んでいた甲斐があったわ」
 え、と聞き返したユーティアに、マルタは頬を軽く上気させて笑った。
「コートドールに戻ってきてから、いつかあなたが戻ってくるんじゃないかって思って、毎日ここへ水遣りに来ていたのよ。こっち側から、柵の焼けた隙間を通って。庭をいじることはしなかったけれど、見たら戦争に焼かれずに、残っている木がいくらかあったんですもの。これは枯らしちゃいけないわ、と思ってね」
「マルタさん……」
「ごめんなさいね、勝手に出入りして」
 ユーティアは首を横に振って、マルタの手を包んだ。


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