24 コートドールへ


 カフェオレ色の煉瓦の中に、時々、象牙色の交じった壁。長年の太陽と雨風を受けてすっかり薄れた緑青色の屋根の下に、小さな窓があって、臙脂のカーテンが左右に開かれている。
「ここよ、レドモンド。ここが、私の家……」
 震える声で、確かめるように口にしながら敷地へ足を踏み入れる。ポストには焼けた跡があり、路地と敷地を遮る白い柵は壊れていた。
「私の、〈ソリエス〉」
 でも、無事だった。
 幻ではない。屋根は所々崩れているし、壁も、玄関先の石畳も砕けている。けれど、家の全体が崩れてしまうほどの被害は受けていない。
 建物は無事だ。その事実を頭が願望ではなく、奇跡的な現実として受け入れられたとき、ユーティアは自分の年齢も、長旅の疲れも、重い鞄を持っていることも忘れて駆け出していた。蜃気楼のように消えることなく、ソリエスはそこに建って、ユーティアを待ち構えている。コートのポケットから、鍵を取り出した。錆びかけた鍵穴を、思い切って回す。
 今にも外れそうな音を立てながら、懐かしい木のドアが、ゆっくりと開いた。
 光が斜めに差し込んでいく。眠るように静まり返っていた店内の、ガラスの瓶も袋詰めのハーブも置き去りになったテーブルが、忘れられていた舞台のように照らし出された。次いで、戸棚に光が当たる。ジャム、オイル、果実酒、蜂蜜、石鹸、薬、クリーム。瓶詰めのドライフルーツたち。
 駆け寄って荷物を放り出し、ユーティアは近くにあった瓶の埃を払った。ローズマリーの蜂蜜だ。隣に並べてあった石鹸は、油が出てきて変色してしまっている。色とりどりのジャム瓶も、中身はだめになってしまっただろうが、見栄えだけは鮮やかだった。淀んでしまったオイルや、白くなってしまったドライフルーツ。
 みんな、みんな、あの日のまま。ユーティアが最後にドアを閉めた瞬間のまま、朽ち果てるのを耐えるように、時の流れを身に受けながらも待ち続けてくれていた。白い棚に散らばったラベンダーも、乾いたディルも、色あせたラベルも。
「ここが、あんたの言っていた店か……」
 床に落ちて割れた瓶を跨ぎ、レドモンドが足を踏み入れる。屋根や壁に傷があるということは、空爆の影響を全く受けなかったというわけではあるまい。細長い瓶や、高いところに並べていたコンポートはいくつか落ちて割れてしまっていた。シロップは石の床にこぼれて、とうにその染みの跡も分からなくなっている。
 ユーティアはことりと瓶を戻して、そうよ、と頷いた。リビングへ通じるドアを開ける。キッチンは店内より、整然と変わりなかった。
「石の塔にいたころ、三人でよく話したわね。ここで薬を作ったり、ジャムを煮たりして……」
 帰ってきたのだ。
 実感がようやく、胸の奥に湧き出でてくる。光で描かれた絵を掴むような高揚が収まってくると、ただただ、言葉に表しきれない懐かしさが込み上げて泣きそうになった。いつも薬を調合して、袋に詰めたテーブル。毎度の食事だってここで食べた。イチゴを洗ったり、ジャムを作ったりしたキッチン。
 愛しかった生活のすべてが、ここには詰まっている。帰ってきてよかったと、心からそう思った。
 ――私の魂は、サロワを故郷としているけれど、コートドールに生きているのだ。
 コートドールの、この場所、この店とこの家に来てようやく、戦争が終わったことを実感した。
「ああ、裏庭を見てこなくちゃ。少し中で待っていてもらえる?」
 ユーティアは目尻を押さえて、リビングの奥の、小さなドアへ向かった。これ以上じっくり見ていたら、その場に崩れて泣き出してしまいそうだ。え、と言いかけたレドモンドを残して、ドアを開ける。
 裏庭に出たら、そこがかつての面影を残していても、いなくても、自分が涙を堪えきれないことを分かっていた。
「――――」
 風が、乾いた緑の匂いを一斉に巻き上げる。押されて、背後で薄いドアが閉まり、伸びた蜘蛛の巣が千切れてきらきらと光った。
 枯れ果てた泉のような匂いがする。生い茂った草と、乾いた土の匂いだ。でも、その中に一片の水の気配がある――朝露のような生命の匂い。焼け爛れて、見る影もなくなった荒れ地の端々から漂う、かすかな命の名残の気配。
 ユーティアはその気配を追うように、背の高い草をかき分けて、裏庭を奥へ奥へと進んだ。種を飛ばして自生してしまった花々を跨ぎ、しなびたレモンの木の、突き出た枝に手をかける。
 からからに乾いた葉の下をくぐったとき、一匹の蝶とすれ違った。反対側の道との境目、裏庭の一番奥に、花が群生している。
 その中に、エプロン姿の老婦人が、草の中から現れたユーティアを見つめて呆然と立ち尽くしていた。
「あなた……」
 裏返りそうな声で言って、彼女は震える手を伸ばした。白い肌、バンダナの下からくるくると覗く、金色の髪。涙を浮かべるその眼差しに覚えがあって、ユーティアはまさかと思いながらも駆け出した。草の根に足を取られそうになる。そんなもの、気にもならなかった。


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