23 農村の日々


「リヨンが窯でパンを焼いている。あとで持っていってやったらどうだ」
「そうね、少し切り分けさせてもらおうかしら。レドモンド、あなた昨日、林檎のジャムを作っていたわよね」
「ああ、あるよ。食器棚の下だ」
「ありがとう、少しもらっていくわ」
 どうぞ、と軽く答えて、レドモンドは三人の、空になったカップを持って立った。礼を言って任せ、テーブルの端に置いていたシャツを引き寄せる。ティムを立たせて背中に合わせ、袖の長さを確認した。ユーティアにも覚えがあることだが、外で仕事をしていると、長すぎても邪魔になり短すぎると体を冷やす。
「うん、ちょうどよさそうね。このぶんなら二、三日のうちにはできるわ」
「別に、急いでくれなくていい。母親のほうを優先しろよ」
「……ありがとう。三日か四日でできるわ」
 背中に大きな接ぎのあるシャツを着て、ティムは分かったと少し笑った。裁縫道具を片づけて、ユーティアはキッチンに立つ。温かいレモネードを、母に持っていく時間だ。
 骨ばった手に手を添えてカップを傾けさせていると、どうしようもなく切なさに襲われることがある。来るべき時がもう近いのだと、薄々分かっているからかもしれない。
 脳裏に、父の顔が思い浮かんだ。こんなに鮮明に思い出せるのは、いつ以来だろう。表情は決して大きくない人だったが、優しく、目が合うと、目尻を少しだけ下げる。病に侵されて痩せてはいたが、父は若さを残したまま、あっというまに世を発った。そういう意味では、老いた家族の、緩やかに近づく死を見届けるのはこれが初めてになる。
 レモネードを作りながら、傍に立ったレドモンドに聞こえないようにそっと、細く長いため息をついた。母の前では、彼女の命など永遠に続くと信じて疑わない、幼い子供のように笑っていたかった。母がユーティアに、そうするように。彼女は決して、怖れを見せない。目を合わせるときは快活に温かく、死も、寒さも悲しみも、何ものにも冒せない微笑みを浮かべるのだ。

 暖炉に煌々と明るい火が灯り、サロワの大地を薄い雪が覆い隠す。昇りつめてゆく寒さの峠を、春が地の底から音もなく押す晩冬、せめぎ合う冬と春の境目にちらほらと雪の降る午後。ユーティアの母、シャーリー・ハーツは穏やかに息を引き取った。七十七歳の誕生日を越えて、一ヶ月を迎えるかという頃だった。
 彼女の最期は眠るように訪れ、家族と、ティムとレドモンドも立ち会った。彼女はゴードンに長らく世話になったことを、三人の兄弟にはいつまでも元気で仲良くあってほしいことを、二人にはユーティアが世話になった礼を改めて述べた。転寝の狭間に、少しだけ目を覚まして喋るような、ふわりふわりと夢心地の安らかな声音だった。
 そして最後にユーティアを呼びよせると、傍へ座らせた。今わの際とは思えない、温かい手でユーティアの手を取って告げる。
「大丈夫よ、ユーティア」
「お母さん……?」
「戦争は、じきに終わる。そうしたら……また、春がやってくるわ」
 ユーティアは思いがけない言葉に、目を見開いた。まるですべてを見透かしているような母の言葉に、どうしてと聞きたくなった。
 けれど反対に、母の瞼はその言葉を最後にゆっくりと閉じられて、あとはもう二度と開くことはなかった。
 葬儀はしめやかに、滞りなく行われ、母の亡骸は父の墓の隣に並んで埋葬された。供える花の少ない季節だ。ユーティアは乾燥させてあったラベンダーを淡いオレンジの紙に包み、母のクローゼットに入っていたスカートの裾から切ったレースで結んで供えた。クローゼットには生前、ユーティアが編んだセーターやカーディガンが大切に遺されていた。
 懐かしいカーディガンから、サロワの空気の匂いがする。
 ゴードンは母のものをすべて、ユーティアの意思に任せると言ってくれた。ユーティアは形見として指輪を一つと、カーディガンと本を手元に残すことに決めた。本当は何もかも、背負って持っていきたいものばかりだ。でも、そういうわけにもいかない。春になったらたくさんの花を手向けて、それを最後に母のすべてを思い出としようと決心した。

 そして翌年、その春が過ぎ、ユーティアが五十一歳になった年の夏。新聞が、六年に渡った戦争の、四国同盟の降伏による終わりを報じた。


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