2 魔女の店


「まあ、すごいじゃない」
 顔を覗かせた母が、思わず歓声を上げる。
 ユーティアがこの家を選んだ最大の理由が、そしてこの家が今まで誰にも買われずに残っていた最大の理由が、この裏庭だ。正面から見ると狭い土地にきっちりと収まって建てられているようなこの家だが、実は奥が広くなっていて、建物よりも遥かに大きい裏庭がある。庭のむこうは、川沿いから一本奥の道だ。両側はそれぞれ、表から見えたアパートと背中合わせに建つ民家が並んでいて、どちらも高さはそれほどなく日当たりもいい。
 隅のほうに何本か、抜き去りきれなかった果樹が残されている。地面には一帯に草が生えているが、よく見ればその所々に畑を作っていた形跡もあり、石が並べられたままになっている。古いスコップと如雨露が、雨を凌ぐように軒下に置かれていた。
 店のほうから、父が向かってくるのが見える。ユーティアは長く伸ばした髪を耳へかけて、その景観に唇を綻ばせた。裏庭へ繋がるドアと、リビングと店を繋ぐドアはまっすぐに並んでいて、開け放しておくと裏庭にいても、店内に人が入ってきたのが見える。キッチンの前には小窓があり、ここからもやはり店の様子を覗くことができた。
 まさに、魔女のためにあつらえられた家だ。
「なるほど、いい家を選んだんだな」
 裏庭へ足を踏み出した父が、微笑んでそう言った。少し、見てきてもいいだろうか。ユーティアが頷くと、裏庭をゆっくりと散策するように歩き始める。
「あら、これブルーベリーだわ」
「え?」
「ちょっと早いかもしれないけれど、もう実ってるのね」
 庭の角を見ていた母が、二本並んだブルーベリーの木に気づいて手を伸ばす。近くへいって見てみると、春に来たときは何の木か分からなかったが、見覚えのある実がぽつぽつと生っていた。
「水を汲んでくる」
 ユーティアは家の中へ戻ると、持ってきた荷物の中から銀のボウルを取り出して、キッチンの蛇口を捻った。しばらく流して古くなった水を出し切り、透明になってきたところでボウルの底に半分ほど汲んでいく。
 手首に跳ねた飛沫の冷たさが心地よい、夏の足音を感じる午後だった。青々と背を伸ばした草は、ユーティアの足を膝まで楽に沈める。

 その日の夕方は母と二人、この家のキッチンで最初の料理を作った。商店街まで出直して買い揃えた一通りの食材を使って、オムレツとチーズの入ったサラダを作る。
 サロワから運んできた荷物は、ユーティアたちが夕食の支度をしている間に父が開けてくれた。時々、屋根裏から「おおい」と呼ばれてユーティアが上がっていくと、これはどこに置く、この荷物は開けていいのか、などと聞きながら、着々とトランクを空にしていった。
 ベッドや机といった最低限の家具は、商店街へ行った際に両親と共に揃えてきた。夜にはこの家に運び込んでもらえる約束になっている。父は家具屋でも日記帳を買うときと同じように、「長く付き合うものだから、本当に好きなものを見つけなさい」と言った。
 ユーティアは深い茶色の書き物机と、それに近い色合いのベッドを選んだ。自室にするのは二階の屋根裏部屋だ。小さな部屋は、彩りをあまり多くしないほうがいい。そのほうが日記を書くときも、本を読むときも眠るときも、落ち着いた気持ちで過ごせる。
 反対に、一階の店で使うマットやテーブルクロス、リビングのカーテン、客室の家具、調理器具などは彩りのあるものを多く選んだ。こちらも決して広い空間ではないが、屋根裏部屋よりも明るく、開放的な昼の時間を過ごす場所である。
 キッチンとひと繋がりの小さなリビングには古いテーブルが残されていて、ユーティアは一目見てそれを結構気に入った。なのでテーブルは新調せず、それに合わせた雰囲気の食器棚を買ってもらった。食器棚を買った家具屋は、すぐに配達にやってきた。寂しげに取り残されていたテーブルの周りが、みるみる賑やかになって、家全体が眠りから覚めたようにユーティアたちを招き入れる。
「さあ、ごはんにしましょう」
 真新しいテーブルクロスをぱっと広げて、母は手際よく、三人分の夕食を並べていった。フォークを洗って添えながら、ふいにああそうか、この「ごはんにしましょう」を聞くこともこれからはほとんどなくなるのだ、と実感する。両親は引っ越しの手伝いと、新居の家具の準備に来てくれただけだ。明日の朝にはこの家を発って、サロワへ帰っていく。
 初めて家を出てロメイユへ行く前の気持ちを少し思い出し、ユーティアは泣きこそしなかったが、喉の奥が熱くなるのを覚えた。涙がせり上がってくる前の一瞬に通過するあの感覚が、ぼんやりと通過しきらず残っている。
 オムレツと、サラダの残りの野菜で作ったスープの香りが肺の奥まで染み渡った。

「それじゃあ、何かあったらいつでも連絡するのよ。たまにはお休みもして、無理はしないようにね」
 翌朝、リビングの隣の客室に一晩泊まった父と母は、ロメイユへ向かう少ない汽車の時刻に合わせて慌ただしく家を出た。サロワとコートドールは、どれほど上手く汽車を乗り継いでも片道に丸二日かかる。往復と昨晩で、二人は家にある農場を五日空けることになってしまい、あまり長居をしていくわけにはいかなかった。


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