U.ルクシオン


「頭を下げないか!」
「!」
 突然、その後ろから怒鳴るような声が響いて、意識を引き戻される。槍を手にした鎧の男が、その灰色の髪の人の後ろから、私を見据えて叫んでいた。慌てて体を前に倒しながら、そうだと思い出す。槍の男は、最初に私を捕らえて、何者だと訊ねた男だった。
 足音が止まって、代わりに柔らかな布が沈む音が聞こえた。ガチャンという、槍を立てたのであろう音も。この短時間で、兵士が槍を触る音を判別できるようになってしまった。ああ、ほんの三十分くらい前までは、そんなのちっとも知らない世界に生きていたのに。
「……これは……」
 柔らかい、槍の男とは違う声が響いた。
 静まり返っていた室内に、何か真新しい、全く別の空気が流れたように感じた。黒一色の絨毯が滲むほど傍にある目をしばたたかせて、私もこれは、と思った。間違いなく、つい先ほど、ドアの向こうから聞こえていた声の一人だ。敬語の相手からけんけんと言われてものんびり返していた、敬語ではなかったほうの。
「君。ちょっと、顔を上げてくれないだろうか」
 声は、正面の頭上から聞こえている。私は硬い動きで、ほとんど土下座に近く足元にへばりつけていた体を起こした。
「……やっぱり」
 猫足の、大きな椅子に腰かけたその人が口を開く。声と同時に唇が動かされるのを見て、男の人だったのか、と初めて思った。襟元を辿って流れる灰色の髪は、女でも滅多にいないほど長い。細身の肩に乗ったローブの黒い羽飾りが、なおのこと中性的な印象を作り出していた。
(まるで、ゲームのキャラみたいなんだけど)
 頭に浮かんだ「コスプレ」という四文字を、いやいやと打ち消す。
 目の前の人はまさしく、ゲームか何かから出てきたような姿をしているが、それはないだろう。彼がもしコスプレであったなら、その隣に控えている鎧の男も、先ほどから後ろでじっとドアを守っている警備の人たちも、ここは全員がものすごく手の込んだコスプレ館ということになってしまう。槍を突きつけてくるあたり、なりきり度合いも半端ではない。
 そして、そんなところに連れ込まれたとしたら、私も自分の身に何が起こるか分かったものではない。ミニスカポリスか? 王道にナース? それともこういうファンタジーっぽいのが好きな人なら、絶対に防御力などないはずのきわどい鎧を着せられてしまうのだろうか?
 兄が貸してくれたロールプレイングゲームを思い出しながら、私はそれだけは勘弁してもらいたいと視界を潤ませた。上野の駅前について、もっと詳しく調べておけばよかったかもしれない。そうしたら清い体で怪しいお城に連れてこられて、怪しい装備を強制されるような失敗は犯さなかったのかもしれないのに……
 あ、まずい。
 さっきまで歪んでいたはずの視界が、妙にクリアになってきた。涙が下へ溜まったのだ。
 震えはとっくに治まったのに、今になっていよいよ泣きそうになっている自分が情けないやら悔しいやらで、もうどうにでもなれと思ったとき。じっとこちらを見ていた灰色髪の人が、私の目を見て、ぎょっとした顔をした。
「き、君! もしかして、泣いているのか?」
「だったらっ、何なんですかあ……っ!」
「な、何って」
「どうせ逃がしてくれるわけでもないくせに! 泣くのくらい、ほっといてよおお……」
 もう自棄になって、彼が多分逆らってはいけない立場の人であろうということも、槍の男が傍に控えていることも、私には何もかもがどうでもよくなっていた。死ぬのは嫌だ。そんなのは当然ご免だったが、自分たちが散々手荒に捕まえておいて、泣いているのかなどということをわざわざ指摘する目の前の男にも、どうしようもなく腹が立った。
 ぼたりと、重い涙が頬を伝う間もなくスカートに落ちる。泣き顔を見下ろされるのが癪に障って、私はキッとその男を睨みつけた。紫の眸はただ戸惑うように、おろおろと私を見ている。
「な……、なんと無礼な!」
「待て、ゼン」
 傍らに控えていた鎧の男が、見過ごせないというように槍を向けようとしたのを、灰色髪の男のはっとしたような声が遮った。しかしルク様、と槍をこちらへ向けたまま、男は食い下がる。
「殺すな。その者、生者だ」
「……は……?」
「殺したら、肉体が死んでしまう。体を持つ者に手を出すのは、魔界の領分ではない」
 ルク様、と呼ばれた灰色髪の男を、睨むのではなく、改めて見上げる。彼の言ったことは、私には何のことだかよく理解ができなかった。物騒なやり取りをされたことだけは分かったが。
 殺したら、死ぬに決まっている。余程の運の良さか一瞬の躊躇でもない限り、二つは改めて説明するまでもなく繋がっているはずだ。しかし、その説明で槍の男は呆然と身を硬くし、驚くことに私へ向けていた槍を自分のほうへと戻した。鎧兜が覆っていて目元はほとんど見えないが、表情が見えなくても狼狽しているのが伝わってくる。
「生者とは、本当なのですか。ルク様」
「ああ、彼女は魂ではない。私には分かる」
「そんな……、それはまた、一体どうして」
「珍しいな。魂の質を探った限り、生きたままこんなところへ堕とされるほど、多大な悪事を働いているようにも思えないが……」
 背後に立って銅像のように動かなかった警備兵までもが、何やら急にざわついているのが分かった。全員の視線が、先ほどまでとは違った何かを持って私を見ている。


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