]T.甘い果実の堕ちる場所


 ――ああ、確かに。以前はそうやって、感情的に泣き喚くことも少なくなかった気がする。
 私は深く呼吸をして、服の上からネックレスを握りしめた。一週間前、上野から唐突に繋がった、遠いあの世界。地上では天頂にあった日が傾いて落ちるまでの短い午後に、私はここではない場所で、きっと生涯忘れられない日々を過ごした。四ヶ月という、季節が一つ、十分に巡るほどの日々を。
 目を閉じればまだ鮮やかに思い出せる、嘘のような本当の出来事が、脳にも心にも、指の先にまで残っているのだろうか。冷たい水に手を浸して洗うシーツの感触や、それを干すときの太陽の気配、雨の匂い。乾いた布で拭き取る窓の透明度や、陶器の滑らかさ。
 メイドとして働いていた四ヶ月間の思い出が、こんなに詰まっていたのかと思うほど胸の奥から溢れ、あの世界での日常だった仕事の光景の合間合間に、離れて一週間しか経っていないのにひどく懐かしい人たちの顔を見た。兄の目に映る私が変わったというのなら、紛れもなく、彼らと過ごした日々があったからだ。目の裏がまた熱くなろうとする。今度はそれを、言い聞かせるように堪える。
 涙は、流しすぎると大切な思い出さえも流してしまう。そんな気がするのだ。
「お兄ちゃん。私あの日、動物園には行かなかったんだ。パンダもハシビロコウも、ソフトクリームも、本当は嘘」
 膝の上で両手を握りしめて、静かに打ち明ける。上野から帰った私は、家族に一日のことを何と話したらよいか分からなくて、予定通り友達と動物園に行ったことにしていた。
 父と母は分からないが、私がハシビロコウを見たと言うわりには感想の一つも出てこなかったので、兄はもしかしたら最初から勘づいていたのかもしれない。怒るでも驚くでもなく、ただ黙って頷いた。手のひらに爪が食い込むほど強く握っていた手を、そっと開く。
「聞いてくれる? 多分、信じてもらえないかもしれないけど――」
 私はぽつりぽつりと、記憶を辿りながら順を追って、先週の日曜日の出来事を話し始めた。
 上野で誰にも会わなかったこと。美術館の前の〈地獄の門〉のこと。そこから堕ちていった先の、魔界での生活のこと。すべてを思い出せるままに、一つずつ話した。

「はあ、なるほどなあ」
 四ヶ月という時間の流れを話し終えるころには、時計の針はそろそろ十二時を回ろうとしていた。所々、話を掘り下げたり詳しく求めたりしながら聞き終えた兄は、一言目にそれだけ言って、うんうんと頷いた。
 途中、机の上から取ってきた煎餅の袋を開けて一枚つまみ、ばりばりと咀嚼してから、思い出したように私にも一枚よこす。すでに三枚はお腹に入っていた私は、もう大丈夫とそれを断り、顔色一つ変えずに煎餅を食べている兄を見つめた。
「あの、お兄ちゃん」
「ん?」
「なるほど……って、信じるの? 今の話」
 あまりに反応が普通すぎて、私のほうが突っ込まずにはいられなかった。
 異世界だの、魔王だの、ポイントカードだの。すべて私にとってはこの身で体験してきた事実だが、それがどれほど稀有なことかは、体験しておきながらこのネックレスがなかったら、夢だったのだと疑ってしまいそうな私が誰より分かっている。絵空事のような話をしている自覚はあった。それだけに、兄の反応が信じられなかった。
 よもや、私が寝ぼけていると思って、途中から真面目に聞いていなかったのではないだろうか。だから煎餅など食べ始めたのか。ありえないとは言い切れない可能性に気づいて、はっとする。
 だが、兄はおもむろに煎餅の袋をクリップで閉じると、胡坐をかいていた足を組み替えて、真面目な面持ちで口を開いた。
「信じるか信じないかで言ったら、俺は信じた」
「は……」
「泣いたから宥めてるわけじゃないし、適当に聞き流しておこうってわけでもない。事実なんだろ?」
 はっきりと言い切られて、私は言葉が何も出ずに、こくこくと何度も頷いた。動物園に行ったことは嘘だ。そちらが偽物で、魔界に行ったことは嘘ではない。でも、まさか兄が本当に、それを信じてくれるとは思わなかった。バカな話を、と一蹴されて終わる覚悟で話したのだ。
「なんで? 疑わないの?」
「んー……正直、魔界だの魔王だのっていうのは、そんな急に言われても現実味がない。でも、お前の変わり方をみれば、メイドとして働いてたっていうのは現実味があるんだよな。四ヶ月って時間も妥当だ。一週間やそこらの、短い期間での変化には思えない。まして一日で、上野で何があったんだと思ってたが、四ヶ月っていわれるとそこんところに納得がいく」
「お兄ちゃん……」
「あと何より、でっち上げであんなにボロボロ泣けたら、お前は女優だよ。俺はそこまで器用な妹を、持ってた覚えもないしな」
 はは、と笑った兄につられて、一足遅れて私も笑った。確かにそうだ。四ヶ月分もの生活を空想で仕立てあげて、思い出して泣いて、揚句それに見合った振る舞いを演じることなど、私には到底できない。まったくもう、と頬を膨らませたが、私という人間を十分に知っている家族ならではの見解に、ようやく本当に涙が止まって胸がほっとした。
 あとに残っているのは、消え入りそうで消えない痛みだけだ。うずくまって呻くほどではなく、紙で切ったよりは深く。息を吸い込むたび、膨れる胸の内側でキリリと痛む。
 声を上げて笑えないほどではなかった。ただ、ほんの一瞬痛むたびに、遠ざかったはずの光景が額を掠めて過ぎっていく。その瞬間だけ、私は何度も、目の前にいる兄が見えなくなって遅い瞬きをした。


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