[.「ナハトのルクシオン」


『……すごい。本当に、すごい』
『え……』
『ずっと――今日の奇跡のために、我々は生きてきた。我々の手では起こすことのできない、この奇跡のために、耐え続けてきた。……いや』
『ゼン! 起き上がらないほうがいい、貴方は怪我を』
『外を見てみろ。町から医者が向かっている、平気だ。あまりのことに、今は痛みも忘れている。まさか本当に、生きてこの奇跡を受けられる日が訪れようとは……』
『動くな、何をやって――』
『ナハトのルクシオン。貴方になんと礼を申し上げたらよいか、分からない。この通りだ』
 乾いた血を拭った手で鎧兜を脱ぎ、あれほど頑なに自分を説き伏せてクーデターを起こさせた男は、打ち壊された壁から入り込む薄い朝日の中でそう跪いた。戦いの前、決して自分たちに勝利を譲ろうとして油断するなと言い残したときとは、別人のように穏やかな顔をしていた。
 たった今まさに、敵う者はないとされた魔王を討ち破った自分の前に。武器も持たず、鎧も被らず、捧げるように首を差し出した彼の姿に、彼らが自分に賭けた希望の大きさをようやく知った心地がした。
『最後に一つ、余力があるならお願いしたいことがある』
『なんだ? 少しなら、できないこともないと思うが……』
『魔力を封じる手錠をかけておいてくれ。ディトライド様が今目を覚ましたら、我々は太刀打ちできない』
『ああ、そうか。そうだよな。このままというわけには、いかないか。……分かった』
 ドアの外が騒がしくなり、城下に避難していたメイドと、彼女たちが連れてきたたくさんの医者が雪崩れこんできた。クーデターとはいえ、城の内部が全員協力者だったこともあり、怪我人は次々と外へ逃がされていたおかげで、奇跡的なことに死者は一人も出なかった。
 薬の名前や医者を呼ぶ声が飛び交い始めた部屋で一人、ルクは魔王へ向けて、最後の呪文を唱えて彼を拘束した。魔界騎士団と辺境の村の少年が起こした、長い一晩のクーデターが、ようやく終わりを迎えた瞬間だった。
「城ではすぐに、動ける者だけで騒動についての説明を行おうと、大広間を開く準備が始められたよ。城門の前にはすでに、戦いの終わりを察して多くの者が詰めかけていたからな。私は城のことは分からないから、後は彼らに任せて少し休んでから帰ろうと思っていた」
「……は? え、帰ろうと思ってたの? そこで?」
「ああ、騎士団は助かったから、もうこれで頼まれたことは終わったと思って……でも呼び止められて、問い質されて。貴方がいなくなったら、貴方でない誰かが王になることになり、そうなればディトライド様に勝ったわけでもないのになぜだとまた不満を煽り、無名の貴方を利用するだけ利用して追放したのではと騎士団の信用を落とし、争いの火種を残すことになり、魔界は治める者を見失って迷走し、統治者のいない暗黒の時代が訪れますがそれでもお帰りになりますかと言われて」
「う、うわあ……」
「まあ、よくよく考えればその通りだと、返す言葉も出なくてな。その場に残って、色々とやるべき処理をやって、実家に連絡をしたりして――今に至るというか。そんな感じだ」
 うん、とルクは腕を組んで、話を締めくくるように頷いた。すっかり冷めたコーヒーの、砂糖がわずかに沈んだ最後の一口を飲んで、私は思わずええと、と口を挟む。
「つまり、貴方が魔王やってるのって」
「成り行き、だな」
 はは、と苦笑して、ルクは呆気なく認めた。
 王になった理由として、これほどまでに不適切な理由が他にあるだろうか。全世界を我が物に、と息巻く悪役のほうが、まだ目標とプライドを持って積極的に行動している。成り行きで行うものなんて、せいぜい二次会のカラオケだとか、忘年会の幹事くらいだろう。全体的に飲み会めいた想像に偏っているのは、成り行きという言葉自体、私の周りでよく使うのは父くらいのものだったからだ。
 でも。
 沈黙をごまかすように、テーブルの端にある羽根ペンに手を伸ばしたルクを見て思う。彼は城内の人から慕われている。魔界を歩き回ったことのない私に、外での評判は分からないが、こうして傍で見ている限り、彼自身も周囲の思いに応えるだけの仕事はしているようだ。
 成り行きかもしれないけれど、飾りの王様ではなくて、玉座よりも多分ずっと、執務室の椅子に座っている時間のほうが長い。
 それに、と。頭の奥にふと、以前に思い浮かべた一枚の絵のような光景が甦った。灰色の石の上を、背中を向けて進んでゆくルク。先代の魔王の最期に、彼は触れなかった。知っているのかとも問わなかったから、私も触れないことにした。ただ、今はその想像が少し具体的なものになって、私の脳裏にいる、私の知らないルクの背中に落ちる髪は所々が焼け焦げているし、鎧をつけなかった腕は服が破れて、赤く血が滲んでいた。意識のない、力尽きた魔王を痩せた手が引きずっている。
 その手が魔法で結末を見届けたのか、それ以外の方法で見届けたのかは、分からない。
「テティさんは、貴方が悪政を正したって言ってた。それってつまり、ルクの故郷の村も、昔よりはよくなったってこと?」
 カップを両手に包んだまま、私は瞬きを一つして訊ねた。


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