T.地獄の門


 ああ、できれば幸せな結婚がしたかったなあ。そんな贅沢は望めなくなっても、せめて恋人くらいはできて、素敵な恋の一つや二つ味わってから絶望したかった。優しくて格好いい彼氏と、人並みのデートや、ちょっといいファーストキスくらいは経験してみたかったものだ。さようなら私の幸せな日々。さようなら、もう永遠に戻らない青春。さようなら、さようなら――
「……あれ……?」
 まるで走馬灯を見ているような気分だった。過去のことも、まだ見ぬ未来にきっと起こると信じていたことも、数え切れない場面が次々と浮かんでは消えていった。人間の頭はこれほど速く動くことができたのかと驚くくらいに、それは怒涛のごとく過ぎていった。
 だが、いくらなんでもゆっくり振り返る時間がありすぎたような気がする。
 覚悟していたはずの衝撃がいつまで経っても訪れないことに、私は困惑して、恐る恐る目を開けた。その瞬間、まるで階段を何段か転げ落ちたような感覚があり、私は無我夢中で叫びながら頭を庇った。
 お腹の底が持ち上がるような、転落特有の感覚はそれからすぐに終わりを告げた。
「いっ、たたた……何、今の」
 どさりと、地面に体を打ちつけて身悶える。あちこちを強く打ったような、一言では表しがたい痛みが肩や背中にあった。ただ、そのどれも、覚悟したほどのものではない。あのとき、眼前に迫ってくる門を見ながら察した痛みは、こんなものではなかったと思ったのだが。
「てっきり、顔からいくと思ったのに――」
 ちょうど、額に刺さりそうな場所に手があったのだ。どうかお手柔らかに、と本気で祈ったのが通じたのだろうか。直前で別の方向にでも転んで、そのまま階段を落ちたのか。そうでなくては肩や背中など、ぶつけようがない。
 腰をさすりながら、痛みの引いてきた体を起こす。顔を上げて、私はゆっくりと瞬きをした。
「え……」
 ぎらりと、銀色の尖ったものが無数に突きつけられている。真っ黒な壁が、隙間なく私を取り囲んで、円を作っていた。
「何者だ」
 その壁の一角が、硬い声で問い質す。
 壁だと思ったものは皆、鎧を身につけた人だった。それに気づいた瞬間、頭の中が強い光で焼かれたように真っ白になり、さっきまでの恐怖など比べ物にならない大きさの恐怖が胸を圧迫して、心臓が押し出されるようにどくんと鳴った。
「何者だと訊いている」
「あ……あ……っ」
「城門をくぐりぬけて、どこから入った。城に何の用だ」
「……っ」
「答えろ!」
 びく、と体が条件反射のように跳ねる。答えたいのに、喉が引き攣れて声がまともに出てこなかった。コートの襟がわずかに、跳ねた拍子に切っ先と触れ合って切れる。私は十人近い鎧の人々に囲まれて、その全員から紛れもなく、本物の槍を向けられていた。
 背中に、つうっと槍の先が滑らされる。布地の表面だけに跡をつけるようなその動きに、私の背中は氷で撫でられたかと思うほど冷たくなって、気づけば両膝が、がたがたと音を立てそうに震えていた。
「わ、私……、ご、ごめんなさ……!」
「謝るということは、貴様、侵入者か?」
「しん、にゅ……?」
「……あまり強いようには見えないが、どう入り込んだのか。人間ならば王に恨みを持っていてもおかしくはない。捕らえろ、まだ仲間がいるかもしれん。背後に気を配れよ」
 わけも分からないまま、一斉に動いた槍の煌きに目を瞑る。ガチャンと、耳元と背後で大きな音が聞こえた。首筋に冷たいものが触れて一瞬ひやりとしたが、それは切っ先ではなく、重い金属の枷だった。鎖が伸びた先に、両手首が繋がっている。
「立て」
 槍の柄で背中を突かれて、それだけで噎せそうになりながらも、私は言われるままに立ち上がった。膝が震えていて、崩れ落ちないようにするだけで精一杯だと思ったが、すぐに両脇を抱えられてそんな心配もなくなった。逃げないよう、腕を組むように歩かされる。
 ほとんど引き摺られるようにして進みながら、私は拓けた目の前に聳える景色を、信じられない思いで見上げていた。
 捻れた三角形の、鋭い屋根。
 厚いカーテンの靡く、無数に並んだ窓。
 砂時計のような形のアメジストの柱に挟まれた、灰色の巨大な扉。
 昔、兄とコントローラーを握って熱中したゲームの世界に出てくる、城のような建物がそこには建っていた。
 西洋美術館でもなければ、あの地獄の門でもない。見たことのない建物だ。それどころか、確かに目の前にあったはずの地獄の門は今、左右を見ても後ろを見ても、どこにも見当たらなかった。代わりに、後ろには別の門があった。地獄の門の数倍は大きく、鉄格子のように向こう側の見える黒い門が。
「きょろきょろするな。それとも、仲間がそっちにいるのか?」
 腕を抱えていた一人に言われて、竦むように前を向く。鎧の男たちはそれ以上、何も言わなかった。歩くたびに、ガチャガチャと金属の重い音が響き渡る。彼らのような警備員が日本で、美術館の前にいるわけがないことくらいは、凍りついた頭でも理解することができた。
 ここは一体、どこなのだろう。
 見上げれば空は、紫の濃淡が不気味に混ざり合った奇妙な色をしている。夢の中でさえ見たことがない世界に、頭を打って意識がおかしくなっているのかもしれないと思ったが、地面に体を打って残っている痛みは現実味があった。灰色の石畳は、空の紫を映してぼんやりと濁っている。
 黒い城門から続く石畳の上を、私は兵士たちに囲まれたまま、真っ直ぐに城へ向かっていった。


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