T.地獄の門


「……何? これ」
 巨大な黒いオブジェが、正面に佇んでいた。いつの間にかこの広場の突き当りまで来ていたらしい。四角い、高さはあるが奥行きはない、板のような彫刻である。足元に目を向けると、銀のプレートが設置してあった。
〈地獄の門〉
 改めて見上げて、中央に真っ直ぐ通された縦の線に気づく。門と言われて見てみれば、それが大きな閉ざされた門であることがすぐに分かった。まるで厚い扉のようだ。多分、叩いても向こうまで聞こえない。色の暗さも相まって、威圧的な重々しさがある。私はしげしげとその彫刻を見上げて、思わず呟いた。
「……なんかちょっと、悪趣味?」
 口にしてから、周囲に人がいなかったことを確認する。プレートにはオーギュスト・ロダンという文字が刻まれていた。生没年も並んでいることから、この彫刻の作者なのだろうということは分かるが、聞いたことがあるような無いような名前だ。有名なのかもしれないが、私の知識の頻繁に出し入れが行われる部分には書き込まれていない。
 地獄、って。
 大袈裟とも言える作品名に、はは、と笑いが漏れた。地獄というのはあの、悪いことをしたら落とされて、あらゆる罰が待ち受けている地獄のことだろうか。幼い頃、祖母にそんな絵本を読んでもらったことがある。ぎょろぎょろとした目の鬼が、ぼろの服を着た人々を面白がるように追い回していた。
 地獄に落ちる、というのは、そういう世界の絵空事だ。天国の存在は何となく信じているくせにと言われたら何も言えないが、地獄は日頃、その存在を信じたいと思う機会など巡ってこない。天国は信じている。小学校六年生で祖母が亡くなったとき、天国は私の支えになってくれた。だが、地獄はまだ私に、何かしてくれたことなどない。
 大半の人にとって、地獄とはそういう、縁の薄いものだと思う。それをわざわざこんな巨大な彫刻に表現するなんて、これが「芸術」というものなのだろうか。何年もかかって創り上げるものだろうに、よりによって地獄。芸術家の趣味はよく分からない。
 分からないが、その地獄の門の迫力は何となく、私にも伝わってきた。鬼気迫るというよりは、黒く、絶対的な力を持って押し寄せる、大きな絶望のような迫力が。趣味が悪いと何度も思いながらも、吸い寄せられるように近づいて眺めてみる。雲間から薄く差した太陽の光に、中央の彫刻が鈍く輝いた。
 よく見てみると、その彫刻は見覚えがあった。〈考える人〉だ。
 他人の空似かと角度を変えて見てみたが、やはりあの〈考える人〉である。地獄の門の中央に座して、一体何をそんなに悩んでいるのか、彼はあの有名な格好で深く考え込んでいた。もしかすると、ロダンとは〈考える人〉の作者なのだろうか。帰ったら、父に聞いてみれば分かるかもしれない。
 階段を数段、上がってみる。一番上に、それ以上はのぼらないよう書いてあるのが見えたが、思ったより近くへ行くことができた。下で見たときはあまりしっかり観察していなかったが、よくよく見ると門の全体に凹凸を刻みだしているのは、無数の人間の彫刻であった。布をまとったり、ほとんど裸に近かったりする人々が、それぞれに祈るようなポーズや力なく腕を投げ出すようなポーズを取っている。皆、どこか打ちひしがれているような、そんな気配が漂っていた。所々、人間ではなく死神のようなものも紛れている。
 とてつもなく精密に創られた絶望に、私は思わず息を呑んでいた。この先にある世界はきっと、一筋の希望もなければ果てもない地獄なのだ。ロダンという人はそういう、生易しさの欠片もない地獄をイメージしてこの門を創ったに違いない。
 これだけのものが創れたのなら、せっかくだから天国にしてくれればよかったのに。
 唇を尖らせて、心の中でそう口にする。絶望が創れたのなら、彼には希望だって創れたのではないだろうか。そのほうがきっと、多くの人が楽しい気持ちで見ていっただろうに、と私は思ってしまう。でもそれは、私が生まれながらに「芸術家」ではないからなのかもしれない。「楽天家」と言われることはたまにあるけれど。
 そんなことを思いながら、人がいないのを良いことに、私は限界までその門へ近づいてみることにした。多分触れてはいけないのだろう、手を伸ばしても届かない距離に、ここまでと書かれている。
 いけないと言われると余計に触りたくなるのが人の性だが、怒られるのも嫌なので近づくだけだ。だが、そう思って最後の段に足をのせたとき。爪先が思いがけず引っかかって、体が急につんのめるようにバランスを崩した。
「あ――――」
 やばい、と。胸がぎくんと冷たくなる。引っかけたものの足を踏み出したおかげで、石の上に顔面直撃は免れそうな状態になった。だが、それは同時に、ここまでと書かれたラインを越えてしまったことでもあった。目の前に、黒く輝く人々の手足が飛び込んでくる。
 ああ、お父さんお母さん、ごめんなさい。私、一生かかっても返すからね。
 ぶつかって痛みを感じることよりも、それが粉々に砕けるイメージが頭の中を駆け巡って、私は思わず強く目を瞑った。次に開けるときが、私の一生の絶望を背負うときかもしれないと思いながら。最悪だ。まさに今、地獄の門をくぐろうとしているのだ。若干十七歳にして、私はいくらの賠償金を負うことになるのだろう。普通に生きていったのでは、到底返せる額ではないかもしれない。高校をやめて、お水の世界に飛び込んで、身を粉にして働いて……


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