V.魔界


 広がろうとする黒い穴のような虚しさを、食い止めようとして、無意識にコートのボタンをいじっていた手を止める。その奥に隠れている感情の中心点を見抜かれたようで、私はとっさに返事も思いつかず、ぽかんとして口を開けた。
「な、なんで」
「違うのか?」
「違わないけど。私、そんなに顔に出てた?」
「まあ、出ていなかったとは言えないんじゃないか。落ち込んで見えたというよりは、友人のことを悪く思われないよう、庇って見えたというほうに近かったが」
 魔族とは、人の心を読む能力でも持ち合わせているのだろうか。瘡蓋の上を触れられるような感覚に、どうしたらいいか分からなくなって目を逸らす。痛くはないが、人が必死で突かれまいとしているところをどうして放っておいてくれないのだろう。
「あー、その、つまりだな……」
 そっぽを向いた視界の端で、ルクが困ったように腕を組んだ。横目に見れば、ゼンさんと二人でこそこそと何か話している。人の瘡蓋を剥がしかかっておいて、今さら何を躊躇っているのだ。
 突きつけるなら、さっさと突きつけてくれればいいのに。君はその友達と、本当は大して仲良くもないのではないか、と。
 だが、何度か開いては閉じて、ようやく開かれたルクの口から出た言葉は、覚悟していた類のものとはだいぶ違った。
「君の話を聞いた限り、君が怒ったり落ち込んだりするのは、当たり前の権利だ。無理をして押し隠す必要はない」
「……え」
「ここは君の住んでいた地上ではないからな。その友人とやらと共通の知人もいないのだから、誰に知られたところで、問題もないだろう。怒ったらだめだ、落ち込んだらだめだと思っていると、駄目な感情を抱えているということになって、矛盾が罪悪感を作る。そんなふうだから、地獄の門に堕ちたりするんだ。門の前で転んだ瞬間の動揺を聞いたときも感じたんだが、君はどうにも、自分にホイホイと罪悪感を科しすぎる」
 しどろもどろな早口で言われた言葉は所々難しく、もしかして励まされたのだろうかと気づくまでに妙な間が空いてしまった。気づいてからも、俄かには信じられなかった。
 友達に放り出され、魔界へ堕ちて、魔王に慰められた。そんな展開、あるのだろうか。しかも、ここが日本でよく言われる「地獄」でもあるというならば、ルクは閻魔大王的なポジションでもあるはずだ。閻魔様には舌を抜かれる。間違っても、励ましたり慰めたりされるなどという話は聞いたことがない。
 しかし、現にやり場のない気持ちを認めてもらった私の心は、脳がそれを信じるか否かということよりも早く、軽くなっているのだ。ボタンから手を離してみても、黒い穴は広がるどころか、しぼんでいくように小さくなって終いには塞がってしまった。
(……変な一日)
 心の中でそう思ったことが、今度ははっきり顔に出たようだ。笑ったところを見られて、なんでもないと首を振る。魔王とその護衛は顔を見合わせて、特に追及はしなかった。代わりにルクがコホンと咳払いをして、少し言い難そうに切り出した。
「ところで、マキ。君の今後のことについてなんだが」
「今後? 侵入者の疑いは晴れたんだから、すぐに帰してもらえるんじゃないの?」
「ああ。君は天国の検問に落ちた罪人でもなく、悪意のある侵入者でもない。地上に帰すことに関して、何の異論もないんだ。できることならそうしてやりたいとは、私も本当に思っているんだが……」
「……え、なに」
 嫌な予感に、綻びかけた表情筋が引き攣った。
 ルクはそんな私に、心から申し訳なさそうに、そして同情するように手を合わせた。
「――すまない。如何なる場合であっても、ここへ堕ちた以上、何の処罰もなしに地上へ帰すことは禁止されているんだ。禁止されているというか、三世界の仕組み上、不可能というか」
「は……!? そ、それって」
「協力はする! 頼むから諦めて、少しばかり罰を受けてくれ。こればかりはどうしようもない。私の一存で、どうにかしてやれる範囲のものではないんだ」
 グッバイ、仮初めの喜び。疑いが晴れた=帰宅できる、だと思った私の無垢にさようなら。
 がたんとパイプ椅子の背もたれに背骨をぶつけて、自分の意識が遠のきかけたことを知った。何ならそのまま気絶してくれても良かった。頭の中はまだ、今聞いた事実を否定したくて盛大に慌てふためいている。
「き、君! 気を確かに――」
 青ざめた私を見て、ルクが手を伸ばした。その瞬間、咄嗟に悲鳴を上げていた。
「さ、触らないで! 鬼、悪魔!」
「あく……!? 違、いやあながち違わないか! どうしたんだ急に」
「いやだああ帰りたい! 離してってば掴まないで!」
「そんなことを言って、今よろめいただろう」
「全っ然、大丈夫です! 第一、処罰ってなに? 協力ってなによ? まさかあんたが直々に拷問でもするつもりなの!?」
「ご……、待て、誤解が大きい!」
 パイプ椅子にしがみついて抵抗の叫びを上げた私に、今度はルクのほうが心底ぎょっとしたような顔をしたので、我に返ることができた。おずおずとずり落ちかけた椅子へ座り直し、暴れた拍子に外れた靴のベルトを留める。
「……報告では、気弱そうな人間の女子、と聞いたつもりだったんだが……」
「……ええ。そうお伝えした覚えがございます。情報に偽りがありました。申し訳ございません」
 向かいの椅子に再び腰を下ろして、何やら分厚いノートを受け取りながら、ルクがぼやいたのが聞こえた。ゼンさんが黒い羽根ペンを渡すと、ルクはそのノートをぱらぱらと捲って何かを書き込み始める。


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