第十三幕


「有難う。有難うございます、本当に嬉しいです。……ハイエル」
「はい」
「……カナリー様と、結婚なさるのですね」
 ハイエルの目の中にも、同じ光が揺れていた。
「……はい」
 確信を持った問いかけに、ハイエルも静かに、だが迷うことなく答える。ライラは小さく頷くと、抱いた指の先に口づけを落としてそっと離した。その温度に、十八年間、空白でしかなかった胸の奥が温かいもので埋まっていく。溶け出して、焼けるように熱く目の裏へ昇る。
「薄情だと、思われますか」
「いいえ? もう、貴方にも分かっていらっしゃるはず」
「……ええ」
「愛する人には、どうか幸せでいてほしい。ウツロワにあってもトコロワにあっても、人の願いは、変わらないものです。ハイエル」
「はい、ライラ」
「十八年間、そう願い続けてくださって有難う。貴方がずっと、私を思い、私が少しでも幸福に過ごせていたらと願ってくれていたから、私は一人でも、物心つく前から人の優しさを知ることができたのです」
 ライラは晴れやかに言って、そのアイスブルーの眸を細めた。しなやかで迷いのない、王妃のそれによく似た表情だ。
 七夢渡りを始めてすぐのときに、彼女は言っていた。ハイエルがこれまでに、自分に対して何もしてこなかったなどということはありえない。たくさんのものを、与えてくれていると。
 あのときはライラの言っていることの真意がまるで分からなかったが、今なら分かる。
 どうしてだろうと幼心に抱いた悲しみ。
 会いたい、と何度となく思った純粋な願い。
 どうか少しでも寂しくならないで、例え世界が違っても彼女に幸せを、と。いつも心の奥底で、口には出せなくても抱かれていた思い。
 ハイエルのそういった感情や思考は、すべてこのトコロワの川岸へ、過去となって流れついていたのだ。人々や生き物たちが流す膨大な量の過去の声の中から、自分に関するものを拾っていけば、ライラにはいつもハイエルの思いを聞くことができた。アレステア王国や、その王女という立場に関するものではない、婚約者というたった一人の立場から見たライラ個人への思いを。
 少年の日々から現在に至るまで、トコロワに生まれ落ちた朝から今に至るまで、十八年間ずっと。
 二つの世界は、この川を通して繋がっていたのだ。
「深い悲しみを背負わせたと、それなのになぜ私はまだ貴方の記憶に残ってしまっているのだろうと、貴方の思いを聞くたびに、ウツロワに生まれなかったことを辛く思った日々もありました」
「……ええ」
「でも、それでも。私は、貴方と出会うことができてよかった。今は本当に、そう思っております。今だけではなく、いつだって、貴方の存在はここで一人過ごすことの大きな支えでした」
「ライラ……」
「会いに来てくださって、有難う」
 分かたれた点と点などではなかった。ハイエルは確かにそれを感じて、自らの手を強く握り締めた。七夢渡りを通して、過去と現在、さらに未来について考えた七日間が、風のように去来する。その只中で最後に掴んだ、揺るぎない結論。
「有難うございます。私も、貴方の婚約者であれたこの十八年を、誇りに思います」
 何年をかけても構わない。生きて出会えたとしたら、間違いなく、生涯を彼女にかけていた。確かにそう思える、初恋の人であった。彼女に未練を抱けたことが、ここで出会って、愛したことの証だ。そして今、その人からも同じ想いを感じることができる。
 だからこそ、在るべき世界へ帰らなくてはならない。思いは同じだったというのなら、尚のこと。
 望まれているのは、ハイエル自身が後悔のない一生を送ることだ。互いに囚われて、鎖を絞め合うのではなく、それぞれの未来へゆく。
「良い、一週間でした」
「はい」
「奇跡のような、他のどんな時間にも代えられない七日間でした」
 それこそが、ライラにとってもウツロワに遺してしまった者たちへの不安を打ち消す、未来となるのだ。今は川岸に留めている両足も、いつかは動かさなくてはならない。そのときに、例え来世では記憶から失われる世界であったとしても、一人でも多く、自分を憶えている人が笑ってくれていたら。
「王国を、頼みます」
「はい」
「父と母を。城の、国の皆を頼みます」
「はい」
「カナリー様にも、どうかそう伝えてくださいませ。どうかこの先も、貴方とカナリー様とで、アレステアを」
「……はい、必ず」
「はい。……ハイエル」
 涙に詰まるように、震える声でライラはそう連ねた。一つ、また一つと返事をして、ハイエルは深く頷く。


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