第四幕


「あっ」
「きゃあっ」
 ぶつかる、と咄嗟に足を引こうとしたときにはすでに遅く、ハイエルの体は自分の胸ほどの高さしかないその後ろ姿と、思い切り衝突した。小さく高い悲鳴が上がる。
 それが誰かなどを確認するより先に、体が動いた。前のめりに倒れかかる黄色いドレスを着た肩に手をかけ、反対の手で宙を掴むように投げ出された細い腕を掴んで、自分のほうへと引き寄せる。
「ハイエル……!」
「カナリー様ではないですか……、なぜこのようなところに」
 腕の中の少女は一瞬、倒れなかったことに安堵の息を吐き出したものの、すぐに我に返って強気な眼差しで振り返った。橙の髪が大きく翻り、射抜くような明るい茶の眸が、自分を捕まえている相手を確かめようと迷いなく見上げてくる。それから唖然として、徐々にその芯に見知った者への親しみを浮かべ、警戒を解いた。
 驚いたのはハイエルも同じだった。曲がり角で派手に衝突するようなことになったのは、足音がしなかったからなのだ。
 つまり彼女は、この場所で立ち止まっていたということになる。こんな、廊下の片隅で。掃除中の女中でもない、王族の娘が何をしているというのだろう。
 問いかけようとすると、彼女は慌てて腕を引いた。咄嗟に強く掴んだままだったことに気づいて、ハイエルが無礼を詫びる。
「城にいらしておいでだったのですね。前もって連絡をくだされば、迎えに上がったものを」
「もう、ハイエル。私をいくつになったと思っていますの? 一人でも迷わずに歩けます」
「そういうことではないのですよ。それで、一体どうなさったのですか」
「え?」
「このようなところで立ち止まって、どこか具合でも? 誰かをお探しなら、私が代わりに――」
 カナリーが珍しく、何かを言い渋るようにしながらもいいえ、とそれを遮った。どこかが痛いわけではないのか、とひとまず安心したあたり、ハイエルの中でカナリーが、今でも妹のような存在であることは否定しきれない。
 同時にそれならば何をしていたのかと思ったところで、すぐ傍にある扉の向こうから、ぼそぼそと人の声がしていることに気がついた。カナリーが居心地悪そうに、ハイエルから目を逸らす。
 ……から……ハイエル様を指名したのは、……カナリー様の意思でもあるって……
 ……婚約……でもハイエル様は確か、昔……
「……カナリー様」
 ハイエルは少し迷ってから、そっと俯いた少女に呼びかけた。
 立場は違えど、昔は懐かれているのを理由にして、幼馴染みのように育った仲だ。何を考えているのか、大体は見当がつく。十歳という年齢の差が、ハイエルに彼女の自我の芽生えや、成長の記憶といったものをすべて見せてきたから。
「お気になさらず。噂話というのは、吹けば散って逃げる雲のようなものです。私なら、この程度のことでどうと気に病むことはありません」
「でも」
「だから、そのような思い詰めた顔をなさらないでください。――失礼」
 ハイエルは一度、カナリーに微笑んだかと思うと、その目の前で声の聞こえてくる扉を開けた。部屋にいた数人の人間が、途端にざわめく。何を、と目を丸くしたカナリーの肩を抱き寄せて、彼は室内を見渡すと、毅然として言い放った。
「城内とはいえ、もう少し声を控えてもらえないか。その話はまだ決定前だ」
「ハ、ハイエル様! これは」
「これほど広まっているものを、今さら咎めて歩く気はない。だが、可能性というものを考えてもらわねば困る。――聞きたいことがあるのなら、陰で花を咲かせていないで、堂々と私へ訊ねに来い!」
 突然の本人の登場にどよめいていた室内は、やがてハイエルがその背に庇っているのがカナリーだと気づくなり、一斉に凍りついた。
 誰かが堰を切ったように申し訳ありませんと叫ぶと、連鎖するようにその声があちこちから上がり始める。ハイエルはその騒ぎを封じるように扉を閉め、カナリーの肩を抱いたままで自分の執務室へと歩き出した。
 昔から、そうだ。カナリーは天真爛漫に見えて、想定外の事態に打たれ弱い節がある。
 そしてそれは彼女の他人を大切にする気質とも相まって、彼女はいつも、自分以上に誰かが傷つくことを心配する。自分自身が打たれ弱いから、同じ思いを身の回りの人間がすると思うと、不安で居た堪れなくなるのだ。そして結果的に、自分を顧みることを忘れ、誰かのために飛び出していこうとする。
 今だってきっと、ここで偶然に出会わなければ、カナリーはハイエルのためにあの噂を鎮めようと扉を開けていたことだろう。七夢渡りとそれによる決断の、妨げとならないように。


- 12 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -