第V章


 空中廻廊の手すりに、雪が積もっている。冷たい空気が硬質に張り詰めて、一歩、また一歩と歩くたびに薄い水晶の膜を破っていくような気配がした。革靴の下の足は、大理石に熱を奪われて氷のようだ。王都の冬は、ケイナ地方より気温が三度ほど下がる。
「タガン」
 家々の屋根に積もった雪を廻廊から見下ろしていたところで、声をかけられた。振り返れば、アドがこちらへ向かって歩いてきている。タガンは軽く頭を下げてアドのほうを向き、雪をはらった手すりに片手を置いた。水気を含んだ石は、しっとりと冷たい。
「久しいな、塔のほうはどうだ?」
「これから行くところだよ。ユリアは特に変わりなく過ごしてる」
「そうか、それなら良かった。メイオール様への報告の日が迫っていてな、私も様子を見に行かせてもらっても構わないだろうか」
「報告?」
「ああ。ユリア様の日々のことはメイドが管理しているが、一年に一度、私が報告に上がらせていただいていることがあって……」
 近頃互いに口調を崩したアドの外套は、冬景色の中では一層深紅に映えた。翻るたび、腰に提げた剣が見え隠れする。黒の手袋をしていた。指先が凍りついてしまっては、とっさに剣は握れない。
 アドは歩き出したタガンの隣に並びながら、少し迷って、おもむろに口を開いた。
「誕生日を、迎えられたときだけな。満何歳を無事に迎えられたことを、責任を持って確認いたしました、と」
「……誕生日?」
「昨日だった。ユリア様の、十八歳の誕生日だ」
「は……、えっ?」
 タガンの反応が、ある程度、予想したものであったのだろう。アドはタガンが何かを言うより早く、「悪かった」と一言口にして、言い難そうに眉間へ皺を寄せた。しばし歩きながらその表情を唖然として見ていたタガンだが、ようやく思考がまとまりを持ってきて、混乱がほどけていく。やがて一つ、深い溜息がこぼれた。アドは気まずそうに、廻廊の外へ視線を背けた。
「誕生祭が開かれないのは、ユリアが忘却の王女だから。そういうこと?」
「……ああ」
「情を持ったら耐えられないからって、祝いもしないのか。非情な家族だな」
「お前の気持ちは分かる。だからそれ以上、言うな。いくらお前の立場でも、誰かに聞かれたら不敬罪に」
「廻廊には僕と貴方だけだ、アド。言いつける人間に聞かれるような、不注意はしてない」
「……はあ」
 二度目の溜息は、アドがついた。気持ちは分かる、と肯定したからには、アドがタガンの発言を誰かへ漏らすことはできない。その人も同意した、とタガンが言ったら、同じ不敬罪に問われることになる。もしもこの場に他の人間がいたなら、二人まとめて、王の前へ突き出されるかもしれない。会話の一端と言えどもアドが同意した時点で、この場に第三者がいないことは確信していた。
「王宮に馴染んできただろう、お前」
「とんでもない」
「どの口が言うか」
「本当だよ。……勝手に身についたものはあるかもしれないけれど、馴染む場所じゃないな。少なくとも、ユリアの誕生日を全員が素知らぬふりで過ごしたことに、僕は驚いたんだ。馴染んだものか」
「……ああ、それもそうだった」
「恐ろしい場所だ。今でも、そう思っている」
 脳裏にクラレットが滲んで、弾けた。王宮にいるからと言って、王を間近で見る機会など滅多にない。イースは秋の誕生祭で見たが、タガンが会場の一番端にいたので顔はほとんど分からなかった。メイオールを見たことはないから、その眸の色を思い出すとき、相手は一人だけだ。
 先王マルシス。彼もまた、娘を忘却の王女として亡くしたのであろうに、孫ができたらその孫も、同じように塔へ押し込めた。その方法に、後悔は本当になかったのだろうか。確かめる術はないが、メイオールの代になっても塔が開かれないということは、彼もまた、今から忘却の王女として娘を亡くすつもりでいるのかもしれない。そしてまた、大きく人目に触れることもなく、歴史は繰り返す。
「どこへ行く? ユリア様のところへ行くのではなかったのか」
「先に行って、ストーブに火を入れておいてくれないかな。食堂へ行ってくる」
「食堂?」
「ケーキが食べたいから、買ってくるんだよ。三つ」
 大きな流れは、いつの時代もきっと変わらない。それでも、流れの一枚下を泳いでいるものたちは違うのだから、吐き出す泡の数くらいは違ってもいいだろう。そう言ったら、何に叱られるのだろうか。王宮か、アドか、あるいは記憶か。二番目という心配は、ひとまずなさそうだ。
 来た道を戻るように歩き出したタガンの背中を、アドは無言で見送り、先に白の塔へ向かった。その足音を耳に、タガンも歩調を速める。王宮は青い屋根が雪に覆われ、白い石像のようだった。高くなっていく日の光に、氷柱の先から一つ、滴が落ちる。


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