第V章


 秋は淑やかに訪れて、天鵞絨の上を歩くように王国を踏み越えていった。途中、第一王子イースの十七歳の誕生祭を通り過ぎて、賑わいの名残をあちこちに置いたまま。その季節はとても短かったように感じられた。農村では豊穣と収穫の秋であったのだろうが、王都では飽食と祝祭の秋であった。
 誕生祭はその最たるものであり、秋の終わりに開かれたことも相まって、この豊熟した季節の終わりを惜しむように、華やかに執り行われた。クリーム色のクロスの上には王国の各地から贈られた祝いの品と、シェフが腕によりをかけたこの日のためのメニューが交ざり合って並び、メイドたちは王宮内の者から王宮外の招待客まで、純白のエプロンをつけてワインを注いで回った。
 アドに促されて参列だけは済ませ、会場の隅でこの宴を眺めていたタガンを目に留め、一人のメイドがボトルを片手にやってきた。以前に鋏を持ってきてくれた、顔見知りのメイドだ。あまり気が進まずに断ろうとして顔を上げたところで、おずおずと頭を下げられてようやく気がついた。リシェ。この場で会うとは思わなかったもので、驚いた。思わず名を口にすれば、はいと表情を和らげる。
「君も、給仕に呼ばれていたのか」
「はい、光栄なことに……と言えたらよいのですが、人手が足りないそうで。応援要員です」
「どうりで、誕生祭には熟練のメイドしか給仕に出ないと聞いていたのに、若そうな人がいると思った」
「私の他にも、二十人ほど急遽呼び出された者がおりまして。タガン様」
「ん?」
「不慣れで申し訳ありませんが、よろしければ、お注ぎしましょうか」
 ケイナ地方から贈られたもので、とても香りが良いですよ。リシェはそう笑って、ワインの入ったボトルを傾けた。葡萄の香りが、ふっと空気を揺らす。知り合いのよしみで、タガンは一杯受けることにした。彼女とはあれからも、時々話をする間柄だ。相変わらず、タガンの部屋の掃除や洗濯の世話をしてくれている。笑ったときだけ、目が合うようになった。
「助かりました。せめて一本は空にしませんと、私、厨房へ戻れませんから」
「他に当たれそうな知り合いは見つかった?」
「あちらのテーブルに、タガン様の二つ隣のお部屋に泊まっていらっしゃる石工さんがおります。王宮の中庭に、噴水を作るお仕事で来てくださっている方です」
「ふうん」
 見るからに酒の好きそうな、大柄な男である。すでに顔がほんのりと赤いところを見ると、とっくに何杯か空けた後かもしれない。それでは、と言ってリシェはその男のテーブルへ向かっていき、歓談する人々の背中に紛れて見えなくなった。最近になって分かったことだが、年上だからと畏まらずに砕けた口調で話したほうが、彼女は気軽に返してくる。きっと、記憶の騎士やメイドといった立場がなかったら、本来は気さくな性分なのだろう。
 記憶の騎士という立場は、タガンの思っていた以上に王宮内で名の通るものだった。権力があるのかと言われれば、王宮の内部に通ずるような力があるわけではないし、政治に関わるような場所に赴く機会もない。タガンの立場は、どちらかといえば地位のある聖職者と似ていた。信仰に関する物事を一手に取りまとめる彼らは、剣も盾も持たないが、鎧に包まれた兵士たちから頭を下げられる。タガンもそういうものだった。空中廻廊で擦れ違った兵士に、お疲れ様ですと姿勢を正されて、そういうことが何度となく繰り返されて気がついた。
 誕生祭に気が乗らなかったのは、そのせいでもある。必要以上の注目を浴びることは、どちらかといえば苦手だった。アドくらいの立場にある騎士以外は、皆、基本的にタガンを上として話を始める。何十と年上の人間にタガン様、と呼ばれて堂々と振る舞っていられるほど、タガンの神経は太くなかった。現に何人かとは顔を合わせてしまい、そのたび遠巻きに、「あれが記憶の……」と話されているのも聞こえている。豪華な食事にもそれほどの興味はなく、ざわめきから離れるようにこうして壁際へ立っているのが、一番気楽に思えた。
 リシェに心なしかなみなみと注がれたワインを一口、口にする。農園で働いていた日々を、ふいに思い出した。収穫はもう、終わった頃だろう。農園があった場所もケイナ地方ではあったが、あの場所のワインとはかすかに土の香りが違うのが分かった。東西に広い地域だ。東の端に農園があり、そこから一時間に一本の汽車で三十分の場所に、実家があった。両親とはあれきり、連絡をとっていない。
「――おはよう、ユリア」
 白の塔の扉を開けて、タガンは冷えた室内へ足を踏み入れた。誕生祭の頃にはまだ、日差しが差し込めば温かさも感じられたものだが、最近では日ごとに冷えていく一方だ。王国はあと一週間もすれば、雪に覆われるだろう。白の塔へ積もる雪は、きっと彫刻が増されたように見える。
 塔の室内にも、メイドによって冬支度が施されつつあった。寝台は暖かい毛布が増やされて、夏の倍くらいの厚さになっており、ユリアが座ると鳥の巣のように柔らかく沈み込む。タガンかメイドがいるときだけ使用するという条件で、小さいながら薪ストーブが運び込まれた。
 ひざかけやマフラーといった防寒具も篭いっぱい渡されたが、これは預けても使い方を覚えるのがその場限りなので、朝になるとまた忘れて、寝台を出て薄着で震えている。メイドが一時間、朝を早めて着替えの世話をしに行くようになり、ユリアの朝は相当早いようだと通りがかったタガンに教えてくれた。七時に行っても、とっくに肩や足の先が冷え切っているという。特別許可をもらって六時、五時と訪ねてみたが、五時ですらすでに起床していたそうだ。
 例年、それでもなんとか風邪を引くことはなく過ごしているというから、それで良いのかもしれないが。床に座り、ソファにもたれて天窓を見上げているユリアの手に、ひざかけを持たせた。羊毛の柔らかな感触を確かめるように、両手で触れる。タガンはソファに腰かけ、一枚を自分の膝に広げて、本を読み始めた。
 百年以上も前の、記憶の騎士について記録した本だ。リシェが掃除の合間に書庫で探し出し、こっそりと貸してくれた。タガンはそのような本の存在も知らなかったが、王宮では比較的、読まれている本だという。誰かの忘れた栞が挟まっているのを、そのまま借りている。もう何人にも、そうして使われてきたことが窺える古びた栞だった。
 忘却の王女もそうだが、記憶の騎士は同じ時に一人しか存在しないため、自分より以前にその役を担った者の話を聞くということができない。王宮での生活に慣れてくると、タガンにとって最も気にかかったのはそのことだった。これまでに記憶の力を宿して生まれた者たちは、どのようにして王宮に仕え、どのような生活を送り、何を思ってきたのか。そして、どんな一生を過ごしていったのか。
 百年も前と今とでは変わっていることも多いであろうし、一人の記録では記憶の騎士というよりその人のことしか分からないが、それでもないよりはずっといい気休めになる。細かく読めば、自分にも当てはまる記載があるかもしれない。薪ストーブに火がついたのを確かめ、タガンは黙々と文字を目で追った。
 ふと、見上げてくる視線を感じて、とんとんと隣を叩く。ローズダストが視界の右側を染めた。


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