八章 -ウェストノールの風-


 轟風が、再び打ちつけてくる。声もそれ以外の音も、何も聞こえない。弾けるような光を放って点滅を始めた操縦席の飛行石を、テオは膝で台座を蹴り上げて接続を取り直し、浮力を戻した。飛行艇が唸りを上げる。予備のエンジンが限界を訴える音が聞こえた。
「――あ……?」
 その音が、聞こえた、と気づいた瞬間が。同時にカルドーラの風の音が消えた瞬間でもあったのだ。予備のエンジンが止まった音がする。ルーダ自体に内蔵されたエンジンは、問題なく稼動を続けていた。飛行石が一度、二度と瞬きをしたが、落ち着いたように青い光を漏らし始める。
「……抜けた、のか?」
「ううん、多分……」
 息を切らして振り返ったテオに、先に後ろを見ていたセネリが首を横に振った。視界を開けるように、座席から乗り出していた体を引いて、テオへと視線を移す。
 テオはその向こうに、歪み一つない澄み切った空気が広がっているのを見た。
「あなたが、直接根の真下まで連れて行ってくれたおかげ。最後に私が抜けるとき、風が、急速に弱まっていくのを感じたの」
「じゃあ、カルドーラは……」
「打ち消せたんだと、思う。こうして見ていても、どこにも根が見当たらないし」
 眼下に、ダイヤ型の大地が一望できる。紺碧の海の上に浮かぶ、色とりどりの点の集合体のような。気づけばカルドーラに飛び込んだときより、ずっと高く、遠い場所を飛んでいた。風に呑まれるまいと、そういえば上に向かってレバーを押し上げた記憶が断片的にある。あの瞬間は必死だったおかげで、何を考えて何を行ったか、とても隅々までは思い出せないが。
「風の、神殿は?」
 テオは真後ろに座ったセネリと顔を合わせて、確かめるようにそう聞いた。泣き出しそうな紫苑の眸が、精一杯に微笑んでいる。そこに眩い朝の光が一筋、貫くように真っ直ぐに射した。鮮やかな橙が、膜を張った水面に溶けて光る。
「――うん」
 その一言で、ずっと張り詰めていたものが破れたように、テオは操縦席にいることも忘れて両手を挙げて喜んだ。飛行艇がぐらりと傾き、針路を失って勝手な方向へ進みだす。セネリは安定を失った機体に悲鳴を上げたが、テオは片手だけレバーに戻して、にっと笑った。その仕草に、何を求められているのか理解したセネリがくすりと笑う。
 厚い手袋をはめたままの自由な片手と、手首にシルクを巻いたままの傷だらけになった白い手が、祝音を上げたあとも離れようとせずに。カフェオレ色の機体は少々怪しい音を上げながらも、二人を乗せて夜の明けた町の上を飛んだ。
「……あのね、テオ」
「うん?」
「ありがとう」
 低い背もたれに頭を預けるようにして、セネリは両腕をテオの後ろから回した。穏やかなその温度に、ウェストノールへ戻る運河を辿りながら、テオもただうんと返事を返す。
 東の彼方から昇る橙の朝日が、町を染め、背中を伝わって手元にまでこぼれてきていた。管理所の屋上が、もうすぐ見える。


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