七章 -カルドーラ-


 ノースポートの岬から客を乗せてウェストノールへ降り、飛行艇をそのまま飛ばしてセネリの家へ向かうころには、空の色はとっくに薄暗い藍へ変わっていた。昼とは打って変わって、涼しい風が吹き抜ける。
 連絡を受けてからずっと頭の片隅に電話のことが引っかかっていたテオは、運河の上空から見える景色を楽しむこともなく、できるだけ距離を短くしてセネリの家へ向かっていた。古くから続く住宅地の上を、飛行艇は屋根から屋根へ、影を移らせながら進んでゆく。やがてその前方に、見覚えのある煙突が見えてきた。
 飛行艇を手早く庭へ停め、操縦席から降りる。窓には厚いクリーム色のカーテンが引かれ、中の様子は分からない。いつもと何ら変わりのない静かな空気を湛えているが、煙突からは何色もの蒸気が交じり合って空へ昇っていた。手袋を外して、コンコン、とノックを数度響かせる。
「セネリ? オレ、テオだけど」
 はい、と少し間があってから、返事があった。声を上げて名乗ると、近づいてきていた足音がぴたりと止まる。ノブに手をかけてみたが、今日は鍵がかけられていた。仕方なくもう一度、「セネリ?」と呼びかけてみる。鍵穴の回る音が、部屋の中から聞こえた。
「こんばんは、テオ。こんな時間に、どうしたの」
「上がっていい?」
「え?」
「……奥、何やってんの。すごい湯気だけど」
 挨拶もろくに返さず、テオはセネリの頭の上から見える室内を覗いた。ドアを一人がようやく通れるくらいに開けて立っていたセネリが、押し込まれるように一歩、後ろへ下がる。わずかな躊躇に一拍遅れながらも、テオはその隙にドアへ手をかけた。あっ、と短い声が上がる。セネリの手が、ドアノブから外れたのだ。
 室内の様子が、一気に明らかになった。初めに視界を占領したのは、テーブルに並べられた夥しい数のガラス瓶だ。中身が入っているものもあれば入っていないものもあり、中には作りたてを冷ましているところなのか、コルクの蓋がされずに並んでいる一群もあった。日常的に身につけているはずのベルトは外されて椅子の上にあり、そこへ下げられた瓶の中にも、蓋を開けられているものや見たことのないような複雑な色になっているものがある。床には茎から落ちたものと思われる葉や花びらが所々に散乱して、植物がどれほど積み上げられていてもそういったものを足で踏む場所に残さない、日頃の彼女の行いらしからぬ有様だった。
 入って、と控えめながら意を決した声に促され、テオは後ろ手にドアを閉めた。植物の混在した匂いが一段と強くなる。それは三つの鍋がすべて、同時に火にかけられて別々のものを煮立てているせいだった。花の状態ではそれほど主張しない香りでも、他のものと混じったり、水に溶けたりすることで存在感を色濃く変えることがある。アモーチスの花の例を思い出したが、今はあのときと違い、慣れれば悪くない香りだなどとは到底思えそうになかった。悪臭でないことは分かる。一つ一つの香りは良い。だが、如何せんそれらが煮立てられて混ざりあった状態では、個々の区別などほとんどつかない。甘さも清涼さも土の香りも、すべてが濃くなって、室内の温度を上げながら空気をどろりと染めていた。


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