五章 -ブラウン・カフェ-


 藍色の裾から滑り出ては右、左、と隣を歩く足と、心持ち穏やかに進む自分の爪先とを一つの視界に、テオはまあいいかと心の中で頷いた。今さら考えたところで仕方がないのだし、何より無駄なことに気を回して楽しまないのでは意味がない。カフェというには遅い時間にこうしてセネリが応じてくれたのは、スクールの夏季休暇で飛行艇士管理所が繁忙期に入り、夕方からでもなければ休みの取れる日がなかったからである。びっくりした、といった彼女の言葉をブラウン・カフェに誘われたこととそれがこんな妙な時間帯だったことの両方だと捉えたテオは、さして深く考えることもなく悪いねと言いかけて、宙に放られたセネリの言葉に目を丸くした。
「私なんかで、良かったのかなって」
「え?」
「人気のカフェの、限定チケットだし。一緒に行くのが私で、退屈じゃないかな、って」
 風下へ流してしまおうと言うかのように、運河の流れを見つめたまま、顔を背けてセネリは言った。退屈。耳の奥から頭へ渡ってばらけた言葉を、もう一度組み立てる。彼女は返事がないことをどう受け取ったのか、待ち時間があったら、何を話したらいいのか分からないかもしれない、と歌うように細い声で言い重ねた。
 右手にテオの暮らすアパートの屋根が見えている。大通りは、もう目の前だ。道を渡って左へ歩いてゆけば、ブラウン・カフェの煉瓦造りの外観が見えてくる。
「あのさ」
 答えを曖昧にしたまま、そこへ辿り着いてしまうのが嫌で。呼び止めれば、セネリはわずかに肩を揺らした。なに。静かな声で、いつも通りの顔でそう首を傾げる。テオはできるだけ言葉を選ばずに、ただありのまま、たった今思ったことを口にした。
「言われてる意味が、正直分かんない」
「え……」
「退屈、ってつまらない、ってことだよね。オレがもしそう思ってたとしたら、誰を誘ったっていいってときに、つまらない相手のことなんか最初に思い浮かぶのかな」
「……テ、あっ」
「おっ、と。ごめん、ちょっとややこしく言いすぎた。平気?」
 会話に気を取られたせいか、振り向いたと思った彼女の頭の高さが急に下がった。厚い石畳の窪みに、足を取られたらしい。紺色の細いヒールが、石と石の間のわずかな隙間に嵌っている。咄嗟に掴んだ腕が、緩めた手の間をぎこちなく抜けていった。テオはどこか痛めなかったかとセネリの表情を覗き込んだあとで、もしかしたら見ないほうが良かったのだろうかと戸惑ってしまった。俯いた頬が、今にも泣き出しそうに赤く染まっている。
「……ごめんなさい。少し、自分が情けないだけなの」
「なんで?」
「ちっとも迷わないで歩いていくテオと違って、見たことのない道ばかり。待ち時間があったら上手く話せないかもしれないって思ったのも本当だけれど、同じくらい、こういうのが申し訳なくて」
「こういうの?」
「……観光地区に来ることが、普段、ほとんどないから。場違いじゃないか、歩くのが遅くないか。知らず知らずのうちに、あなたにも恥をかかせていたら、って」
「セネリ」
 すべて聞き終わらないうちに、テオはその言葉を遮った。彼女の言わんとしていることが、何となく分かった。


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