U.光る石


 古書屋へは本当に、五分とかからなかった。それどころか早足に歩いたせいで、三分もかかっていないかもしれない。お陰で余計なことを考える間もなく、マリアの前には古書屋「アーク」の看板が吊るされていた。これも真鍮なのだろうか。下から見ただけではあまり自信が持てないが、おそらくそんな気がする。
 このドアの前に立つのも、もう二度目だ。厚そうで古そうで、ノブを回したら音を立てて外れてしまいそうに見えるが、見た目より静かに開くことは知っている。マリアはしばしそのドアをまじまじと眺めたり、もう一度看板を観察したりした。このドアを開けるまで、誰に想像がつくだろう。太陽の光と星のモビールの溶け合う、あの空間を。
 「ごめんください」
 コンコンと、ノックをする。今日は中から物音がしない。あの青年も、黒猫も留守にしているのだろうか。だが、そう思いながらも無意識にノブへと手をかけると、それは予想外にもするりと回って、ドアが開いた。
 「……」
 ドアが、開いた。自分で開けておきながらもわずかに開いた隙間を見て、マリアは手を止めてしまった。実のところ、八割くらいはどうせいないと思っていたのだ。開くはずがない。古書屋と看板を掲げてはいるがきっとここはそれほど営業などしていなくて、あの青年も何だかんだと出かけていることが多いのだろう。あのときはたまたま戻ってきたが、あれは自分が長々と店の前で躊躇っていたからだ。そんなに毎度、いいタイミングで帰ってくるとは思えない。
 彼の生活など全く知らないのに、第一印象とは恐ろしいもので、マリアはすっかりそんなものだという気がしていたのである。だが、実際はどうだろう。鍵が開いている。ということはおそらく中にいるのだと思うが、返事はなかった。聞こえていないのだろうか、それとも閉め忘れか。後者だったら忍び込むようで嫌だと思いながらも、隙間から漏れてくる紙の匂いに誘われるように、そっとドアを押した。
 「ごめんください。……誰もいませんか?」
 こつ、と爪先の感触が変わる。しんと静かな店内で、星のモビールが揺れていた。黒猫の姿はない。外へ行っているのだろうか。そうしてゆっくりと天窓を見上げようとしたとき、マリアはようやく、店主の存在に気づいて悲鳴を上げそうになった。
 ―――中二階に、人が倒れている。
 初め、本気でそう思った。力なく柵の間から垂れた腕、うつ伏せに近い体勢で崩され、階段へ向かって投げ出された足。どこからどう見ても、時すでに遅しという何かに見える。
 だが、思わず青ざめそうになったところで、マリアはふと最も自然な可能性に行き当たった。もしかして、と思い、恐る恐る目を凝らしたがここからではよく分からない。数秒迷って、中二階へ続く階段へ足をかけた。新しく作ったのだろうか、ここだけ木の色が若い。もともとあった家を改築して、両側に中二階をかけたのかもしれない。
 そっと、近づくにつれて自然と息を殺してしまっていた。腕と髪の間から、わずかではあるが横顔が見える。眠っていた。静かな寝息が聞こえる。間違いない、咄嗟のことに倒れていると思ってしまったが、眠っていたのだ。この場所と姿勢が紛らわしいのだと、心の中で勘違いの気恥ずかしさを目の前の相手に押しつける。彼は、そんなことも露知らず、ぐっすりと眠っていた。
 「……鍵、閉めなくていいのかしら」
 ぽつりと、起こさない程度にマリアは呟く。私が悪人だったら、どうするつもりなのだろう。大切な商品を持っていってしまうかもしれない。こんなに深く眠っているのだ、奥に見えるドアの中に入って、何か大切なものを盗んだ後で、壁にかけられたままの鍵を持って出て、彼を閉じ込めてしまうかもしれない。そんなことになったらどうするつもりなのだ、と半ば呆れながら考えて、それからふと、マリアは自分の矛盾に気づいて可笑しくなってしまった。私が悪人だったら、だなんて。悪人ほど優しげに見えることもあるものだと、あれほど警戒したはずの相手に、できもしない悪事を想像して一人で心配している。
 いけないな、と思った。眠っているとは言え、相手は素性の分からない人間だ。絆されては、こちらが痛い目を見ることになりかねない。極悪人だって睡眠は必要とする。誰だって、眠るときくらいある。
 「……ん」
 「あ」
 「……え?」
 だが、そう思って何も見なかったことにして出て行こうと立ち上がったときだ。床が軋んで、青年が目を覚ました。ぼんやりと宙を見上げた眸が、マリアを捉えて急速に覚醒する。セピア色の眸に頭から爪先まで確認され、マリアはその場に立ち止まるほかなくなった。
 「貴女は……、先日の。あれ、すみません、いつからそこに?」
 寝起きにしてははっきりとした口調で言って、青年はどこか慌てたようにそう問い質した。起き上がって立たれると、目線の高さが逆転する。こうなってしまうといっそ逃げ出すほうが怪しく見えると感じ、マリアは正直に首を振って言った。
 「たった今、入ってきたところなんです。ごめんなさい、鍵が開いていたから誰かいると思って」
 「鍵が……?あっ、そういえば作業の前に締めなかったような……!」
 「入ってすぐ、中二階であなたが眠っているのに気づいて。その……」
 「はい?」
 「……倒れているのかと、思ったから。疲れていただけだったんですね、起こしてごめんなさい」
 作業と、今、彼は言った。古書屋の仕事か何かをしていて、そのまま疲れてうっかり眠ってしまったのだろう。鍵のかけ忘れは看板を出している以上どうなのかとも思うが、自分が責めることでもない。むしろマリアは、勝手に中二階に上がったことを咎められるのではないかと、そちらのほうが気がかりで早く謝って出て行きたかった。自分が出て行けば、彼はまた休むのかもしれない。そもそもここへ、目的の品物があって来たというわけでもないのだ。よくよく考えれば猫に引っかかれて出て行くべきであるくらいの、無駄な睡眠妨害である。
 「上がってごめんなさい、もう起こさないように気をつけます。それじゃ」
 「あ、待って―――」
 きちんと謝罪をして、出て行って、そうしてできればもうあまりここへは来ないようにしよう。そう決心したマリアが深く頭を下げ、中二階に背を向けて階段へ踏み出そうとした瞬間だった。引きとめようと咄嗟に伸ばされた彼の腕から、一冊の本が落ちたのは。
 すべてがスロー映画を見ているように目に映った。彼の手を離れた本が中二階の床に落ちて、重そうな音を立てて頁が捲れる。その隙間から、溢れんばかりにいくつもいくつも、零れてくるものがあった。薄金色に光る、とげとげとした歪な塊だ。光の粉を散らしながら、後から後から溢れて宙へ投げ出されていく。階段を転げ落ちるそれらはマリアの足を止めて、硬質な音を立てながら一階へ落下していった。最後の一つがこんと音を立てて止まり、後にはただただ、指先一つ動かせないほどの衝撃が残った。
 「……ああ……、ええと、とりあえず」
 「……」
 「説明します。下に、おりましょう」
 静かになった店内で、マリアはただブリキの人形のように、ぎこちない動きで首を縦に振った。どこに隠れていたのか、いつの間にか出てきた黒猫がニャアオと鳴いて光の塊を一つ、小さな手で転がしている。それは紛れもなくあの日、マリアが彼へ届けた落し物と同一の何かだった。


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